高原英理「不機嫌な姫とブルックナー団」を読んで
読後、思い出したのは、河野多恵子の作家は自らの精神的眷族を増やすために小説を書くという言葉だった。或る特定の読者に突き刺さるような印象を残す小説である。不恰好で不器用で、スマートではないブルックナーの曲を愛する女性とブルックナー団なる、ブルックナー愛好家三人の喧々諤々の交流を描く。
成功した作家、三島由紀夫の裏側には、成功することなく埋没した、無数の三島由紀夫の候補がいると述べた哲学者の記述をもちだすまでもなく、成功者よりも無惨な敗北者の数の方が圧倒的である。考えてみれば、世にサクセスストーリーは溢れていても、日陰者の日々を描いたものはない。破滅型の私小説作家であっても、小説という形で発表され、なんらかの利益、名誉を生んだ時点で、日は当たっている。そもそも、日陰者は無名の存在だ。私からすれば、いわゆる成功者は、単に運がよかっただけのように思う。本書は、運に恵まれなかった大多数の側を敢えてとりあげている。そのありかたには、なりふりかまわぬ切実さすら感じられる。登場人物達のような生きづらさ、閉塞感を感じている読者に深い共感をもって迎えられ
る小説だとおもう。垂野創一朗氏のブログの一節に、本書をラヴクラフト「インスマスを覆う影」になぞらえている部分がある。その意味では、この「不機嫌な姫とブルックナー団」は、「ゴシックハート」の続きでもあるし、「抒情的恐怖群」を補完するものでもあるのだろう。高原英理氏が、かつて中井英夫論のなかで定義したように、幻想文学は、作家の資質で決定されるなら、幻想文学者である、高原英理氏により執筆された本書もまた、幻想文学といえるのではないだろうか。
幻想文学とは、生きづらさを最も極端な形で表現したものをさすのだから
posted by りき at 07:39| ロンドン |
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