2022年02月13日

龍胆寺雄「放浪時代」異聞

龍胆寺雄「放浪時代」異聞

先日、岡田三郎の調査で、

岡田が同人として所属した雑誌「近代生活」のバックナンバーをざっと確認した。

改めて感じるのは、高見順がいうように「近代生活」は、新興芸術派の機関雑誌だったのだと。

龍胆寺雄「放浪時代」は、高原英理さんのお気に入りの作品のひとつ。「少女領域」でもとりあげられている。

「放浪時代」は、都会生活を営む男女の享楽的な生活を描いた作品である。かつて「幻想文学」で、東雅夫さんが「永遠に続く夏休みのような雰囲気」があると指摘していたが、本作の魅力はそこにつきる。

高原さんが、かつて、ブログにて

「放浪時代」は、村上春樹につながる都市生活者の原型となるものをうつしとったと書いていた。

なるほど「放浪時代」には、もしかしたら、理想化された都市生活が描かれているのかもしれない。では、実際にはどうだったのか。佐々木幹郎さんがかつて私に語った「雑誌の目次に時代は現れる」という言葉に従い、「近代生活」に現れた「時代」をみてみよう。

雑誌「近代生活」は、必ず、映画、野球、ファッションの紹介記事があり、座談会もそうした風俗に関係したものばかりだ。

なかには、新興芸術派の面々を野球チームにたとえ、同じく仮想の野球チームになった、他作家と空想の試合を繰り広げるという記事もあり、なかなか、たのしい誌面構成となっている。

文壇ゴシップを紹介するコラムもある。

時折、他の同人誌で活躍する作家をゲストとしてかかせている。

吉村鐵太郎、堀辰雄、宗瑛、北園克衛、山下三郎など。

龍胆寺雄はコンスタントに執筆。

時評的な記事が多く、評論家的な役割をおっていたようだ。

「近代生活」は、都市生活者のための文藝雑誌であったようだ。

いまの我々からすると、大衆風俗を研究するための素材として有益だと思う。

「近代生活」は、「放浪時代」が描かれた空気感を具体的に感じさせる。

岡田三郎の調査の過程でわかったことだが、ほかに書くところもないので、ここにまとめておく。
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2022年02月11日

西村賢太の死をめぐって

西村賢太が亡くなった。

早いと思う。

わたしは彼の小説は苦手で、「どうで死ぬ身の一踊り」一冊しか読んでない。あまりに読後感が悪く、同人誌「FANTAST」でメッタ斬りにしたエッセイを書いた記憶がある。論旨は忘れたが、たしか、藤澤清造に重ねた形での露悪的な私小説には、肉声は宿らないといったまとめかたをした。

わたしが西村賢太の文章にはじめてふれたのは、倉田賢明「稚児殺し」の解説である。亀鳴屋から、二冊目の本がでるときき、喜び勇んで入手し、その本をもって、赤坂ですぺらにいった。

渡辺一考さんに、「稚児殺し」を渡したところ、黙々と解説を読み終わった一考さんが、解説を絶賛したことを思い出す。

わたしが、西村賢太の仕事で評価するのは、作家論的なエッセイ、新潮文庫「根津権現裏」の本文校訂である。

とりわけ「根津権現裏」の本文校訂および解説は素晴らしい。西村賢太でなければできない仕事だ。

気になり、エッセイ集「ときには小説にすがりつきたい夜もある」を読んだ。

やはり、作家論的な文章が素晴らしい。西村賢太という人は、鑑賞能力が抜群に高いのだ。

だが、私とは見解がわかれるところもある。北条民雄は、私にとって、第一次戦後派に連なる、ドストエフスキーに影響を受けた文学者である。私小説家としての印象は薄い。

西村賢太が登場する動画をみていて、印象的だったのは、遠藤周作は認めていたところだ。おそらく、遠藤作品のダメな登場人物に惹かれるものがあったからだろう。

西村賢太が推す私小説家は、わたしが苦手な作家ばかりだ。わたしは、小山清、木山棲平といった露悪的な要素が少ない作家に惹かれる。これはもう嗜好の違いとしかいいようがない。

惜しまれるのは、西村賢太の探偵小説がこれで読むことができなくなったこと。これは残念である。

いずれにせよ、早すぎる死である。残念だ。
posted by りき at 21:07| ロンドン | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月09日

武田泰淳「富士」をめぐって

武田泰淳「富士」は、作品内部で扱われている題材その他を鑑みるに、泰淳版「死霊」というべき代物だろう。本作は、その意味でさまざま先行作品の二次創作とでもいうべき要素が散見される。自ら、天皇を名乗る一条実見は、精神病院の実質的な支配者であり、彼の造形には、ドストエフスキー「悪霊」のスタブローギンの影響がみられる。「富士」の構造自体にも、ドストエフスキーの諸作品を踏まえたとおぼしきものが多々あり、実際、作中で登場人物のひとりが「ここでドストエフスキー作品のなら云々」という発言をしていることからも明白である。埴谷雄高「死霊」への対抗意識は、黙狂の少年が登場すること、ラスト近くで、やはり登場人物のひとりが「あっは、ぷぷい」と述べていること、精神病院内で登場する命題が、作中人物の対話または独白によって追求されていく手法などに顕著である。作家は、戦時、富士山麓の精神病院という場を設定することによって、人間の意識、思考を研究素材的に扱い得る場をもって、諸概念の相対化を試みる。結果、ラストのすべての事象がとかしこまれるような混沌へ導かれることになる。
「富士」は、狂気と正気の区分とはなにかという大枠のなかで、諸概念の懐疑をおしすすめる。結果として、境界は破壊され、すべては一義化される。では、泰淳の目的が単なる相対化であったのかというならば、そうではない。最終章のタイトルが「神の指」となっているように、いま、ここにあることの肯定というところにいったん、着地させているのだ。このあたりのニュアンスは、存在の〈革命〉を目指した埴谷とはいささか異なるところだ。埴谷の攻撃性は、泰淳「富士」から感じられない。
埴谷の措定する絶対性が、西洋的な「神」概念のそれであることは、短篇「宇宙の墓場」でもあきらかだ。埴谷は、西洋的な世界観のもと、諸概念の糾弾を試みる。梶井基次郎「闇の絵巻」は、「闇のなかの黒い馬」で埴谷が目指した理想形ともいうべき境地にある作品だ。感性と思考がむりのない形で一致しているからだろう。
ただ、「富士」を読み終わった私を襲ったものは、痛烈な違和感であった。「富士」「死霊」で扱われる題材のうち、とりわけ、存在や意識にかかわるもの、埴谷作品についていえば宇宙にかかわる論議全般が、ピンとこないのだ。こうした境地のものを扱うのに、文学という物差しは不適切ではないのかという疑問である。
いま、ここにあること、存在という問題を考えたときに否応なしに、この地球を含む化学的な歴史、生物学的な歴史に向き合わざるを得ない。そして、そこから窺われるのは、あらゆる生物は栄枯盛衰をくりかえし、不変という概念が不在であるということだ。そして、人類という種もまた例外ではない。私には、埴谷にしろ、泰淳にしろ、人間という存在への安心感がどこかにあるように感じられる。おそらく、このニュアンスこそが「時代」であり、作家は時代の子というが、かれら戦後派が、戦争という破局をへて、新しい文学をつくりあげるという未来を信じていたことを強く感じさせるものとなっている。物語の基調が悲観的ではないのは、それが理由だろう。この在りかたは、香山滋の基調底音とは対照的である。香山滋は、退嬰的であり、世捨て人のような態度を示している。これは、香山滋の文学的出発のひとつに、『前世界史』があったことによるものだろう。その意味で、香山滋は、生物学的視点から得た感覚、諸行無常を、自己の創作の核としている。
思うに、小説でとりあつかいうるものは、具体性をもったものに限られるのではないだろうか。観念そのものを取り扱うことはできないと考えざるを得ない。遠藤周作「沈黙」と「富士」や「死霊」の読後感があまりに違うからだ。「沈黙」が、物語の叙述にしたがい、登場人物の心理や行動に無理なく、テーマが託され、読者にも納得のいく形で提示されているのに対し、「富士」「死霊」は、会話、独白によって具体性をもたないまま、テーマが処理されている。作家は、小説に対し、なにをかくのも自由だし、なんでもありだというだろう。だが、読者からすれば、その作品に対し、きちんとした腹オチをしたかどうかということは表明する権利がある。現在の私からすると、埴谷、泰淳のありかたには、NOといわざるを得ない。やりたいこともわかる、方向性もかっこいい。だが、手段がまちがっているのではないかといわざるをえない。
異論はあると思うが、作品なんざ、面白いかそうでないか。その二択でしかない。また、その感想も千差万別である。ここにおける意見表明もまた、一読者の感想であり、普遍的なものではないことを断っておく。
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2021年11月06日

「ドードーをめぐる堂々めぐり」

決定版ドードー鳥入門書

一言でいえば、労作、である。

近代以降の絶滅動物に強い興味をもつ著者は、江戸時代に長崎にドードー鳥がきていたという事実を足掛かりに、世界中をめぐり、ドードー鳥の痕跡をたどる。

タイトルにも、堂々めぐりとあるように、現時点の最新のドードー鳥についての案内書であり、この書籍によって、ドードー鳥の研究に終止符がうたれたわけではない。

ドードー鳥研究は、現在進行形の営みなのだ。

蜂須賀正氏や「不思議の国のアリス」にも触れながら、堂々めぐりをおこなう、著者の筆致はかろやかである。

著者が最後に記したように、読者ひとりひとりが、堂々めぐりに参加したくなる、そんな熱気にあふれているのが、本書である。
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2020年12月05日

高原英理「観念結晶大系」をめぐって

「憧れ」という感情は、決してかなうことがないことがわかっていながら、なお、自分が理想とする状態に至らんとする意思や思いとするならば、そこに見いだされるのは、愚直なまでに突き進まんとする、ドン・キホーテ的なありさまではないだろうか。他人からどう思われようと自分の思いを貫いて行く。狂気すら感じる、そのひたむきさは、宗教的な熱気にも似ている。

高原英理「観念結晶大系」は、「憧れ」をめぐる物語である。

本作の特徴は、このテーマを、エンターテイメント作品の手法ではなく、文藝作品として描ききったところにある。取り上げらた舞台装置、言及対象には、作者個人の嗜好があきらかに反映されているところがある。こうしたありかたには、「好きなものを好きなように語りたい」という開き直りにもにたものすら感じる。

あらゆる文学作品は、作家の主観から逃れえないとするならば、「観念結晶大系」に託された、ひたむきに彼方を見詰めようとする意思とはなんだろうか。

ままならぬ現実への焦慮、というのは安易だろう。

ここには、創作者の多くがかかえる原始的な意識、世界改変の思いの投影があると私は考える。

いま、ここに充足している人間は、虚構を必要としない。不満がなければ、なんら行動を起こす必要がないからだ。

満たされた自分に満足し、ただ、目を閉じていればよい。

だが、刮目し、彼方をみつめつづけることをやめぬ人々もいるのだ。

その意味において「観念結晶大系」は、分析を拒む物語だ。本書に対して、読者は、肯定か、否定かを選ぶしかない。

インナースペースの希求を主題とし、シュルリアリスムの手法をとりいれ、SFにおける文藝性を追及した、ニューウェイブSFの流れをくむ、荒巻義雄や山野浩一といった作家たちの作品世界は、本書に似た境地をめざしている。だか、「観念結晶大系」は、ジャンルの保護がはたらかない、幻想文学の枠組で描かれた作品である。

幻想文学とは、なにか。簡単にいえば、極をめざす文学作品である。極とは、なにか。それ以上なにも存在しえない行き止まりである。美も醜も同一のものとして扱われる場だ。

「観念結晶大系」は、最終境地をめざした作品なのだ。著者の命がけの探索の軌跡がまとめられている。
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2020年04月21日

「雑魚のととまじり」をめぐって

「雑魚のととまじり」をめぐって



本書「雑魚のととまじり」は、花咲一男氏の成田在住時代の「米翁日記ノート」に並ぶ貴重な収穫だ。どなたかが指摘しているように、花咲一男氏の興味が、モノから人に移動した時期の所産ともいえる。
私が花咲一男氏の著作を集中的に読み込み出したのは、日本上陸直後のラフカディオ・ハーンが見たものをしりたいと思ったからだ。ハーン、小泉八雲が感激したものは、急速な西欧化を進める明治時代の事物ではなく、失われ行く江戸の残滓だったはずだからだ。しかも、八雲の目線は庶民のそれを意図的に重ねる。近世庶民風俗研究者の花咲一男氏の仕事にたどりつくのは、必然だったともいえよう。花咲一男氏の存在は、本書を一読いただければわかるように、江戸研究、探偵小説、古本、国内外の文学作品といった各ジャンルをひとりでつなぎとめる、ミッシングリングのようなものだ。花咲一男氏への追悼文のなかで、濱田雄介氏は、江戸川乱歩のエッセイに登場する、「黒死館殺人事件」一冊をもって出征した人物が、とうの花咲一男氏であることを書き留めている。実際、本書「雑魚のととまじり」の言及範囲の幅広さには、驚くばかりだ。
花咲一男氏の著作群の特徴をいくつかあげると、堅実な実証、圧倒的な情報量などがあげられる。ただ、私は「江戸の人魚たち」、「江戸魚釣り百姿」、「近世風俗雑考」などにかいまみえる、花咲一男氏のエッセイめいた記述にも魅力を感じる。まるで、親しい老爺から面白い思い出話を聴いているような感覚すらおぼえるからだ。本書の中心をなす話題は、江戸川乱歩との驚くべき交遊、高橋鐵とのかかわりなどなどいろいろあるが、永井荷風筆とされる「四畳半襖の下張」をめぐる興味深い記述がある。「四畳半襖の下張」は、さまざまなテキストが流布しているが、私がもっとも校訂がいきとどいていると思うのは、豆本で刊行された、生田耕作校訂による「四畳半襖の下張」である。一級の文学者が渾身のちからで校訂しただけあって、圧倒的に読みやすいのだ。なお、「四畳半襖の下張」をめぐる一連の事件は、主犯とされた、平井呈一の異様に歯切の悪いインタビュー記事にすべてが尽きているように思う。私がきになるのは、「雑魚のととまじり」に記載されたもうひとつの永井荷風筆という猥本である。おそらく、どこかには存在しているにちがいない。
花咲一男氏の江戸をめぐる文章に、ポーやボードレールの引用がなされる背景も、本書を読むと了解できよう。リラダンを愛し、渡辺一夫に私淑し、筆名にその一部をとりいれた花咲一男氏の江戸研究の最大の特徴といえる軟文学への特化は、フランス文学にも顕著な風流ものの流れを組むものともいえる。とすれば、花咲一男氏の活動は、戦後の矢野目源一のそれと軌道を一つとするようにも感じられる。花咲一男氏が、軟らかい文学をとりあげた、興味をもったのは、そこには、人間の変わることがない生々しい生態が露わになっているからだろう。「末摘花」などに収録されたきわどい川柳にうかびあがる、おおらかなエロティシズムは、それ自体がある種の反時代性を帯びる。花咲一男氏のエロティシズムを中核に据えた江戸軟文学の研究成果は、花咲一男氏自身のアナーキーさを体現している。
さらにいえば、矢野目源一は、江戸の歌舞音曲を翻訳に積極的に投影した翻訳家だ。矢野目源一の訳業は、同人誌「サバト」参加以前と以降で質が大きく異なる。同人誌「詩王」時代の翻訳は、素直な訳しぶりであり、実作も真っ直ぐな抒情詩であった。それが「サバト」以降、江戸の香に満ちた趣味性の高いものに変貌する。矢野目源一に江戸趣味を投入したのは、多分、城左門だったと思われる。もしかしたら、正岡容の薫陶もあったかもしれない。いずれにせよ、日夏耿之介門下による、江戸趣味の洗礼を受けた結果、矢野目源一の文業の質は一変する。文藝愛好家から探偵小説愛好家に変化し、江戸川乱歩との交遊から、江戸研究者となった、花咲一男氏の歩みにもまた、矢野目源一に似たものを感じる。それは、決定的な影響力をもつ存在に、その後の歩み、人生まで決められてしまうという在りかただ。
江戸研究者、花咲一男氏は、江戸川乱歩抜きには語れない。それは、また、江戸川乱歩を語るうえで、江戸を外すことはできないということでもある。
乱歩の探偵小説の秘密は、江戸にある。江戸川乱歩における、江戸の影響こそ、変格探偵小説をかきつづけることになった理由が隠されている。乱歩が愛した「白縫譚」は、鏡花が愛好した草双紙である。鏡花が意図的に理想化された江戸を自作にとりこんだように、アナーキーな江戸のパワーに似たものを、乱歩は、探偵小説に見いだしていたのではないだろうか。
いかがわしいとして、坪内逍遙に切り捨てられた、近世文学やヴェルヌの冒険譚がもつ熱気、狂気の復活を、乱歩は、探偵小説というジャンルのなかで企てたのではないだろうか。ふりかえれば、SFにしても、もともとは、変格探偵小説のひとつとしてはじまっているのだ。乱歩は、まちがいなく、探偵小説のジャンルとしての柔軟性、網羅性に気づいていたはずだ。そうしたとき、乱歩の企みの共犯者のひとりとして、花咲一男氏は、その姿を現す。探偵小説とのかかわりからも、今後、花咲一男氏の営みは、再評価されていくものと私は信じている。
花咲一男氏のたたずまいから、私は、江戸後期から幕末にかけて膨大な記録を書き留めた、「藤岡屋日記」の著者を思い出す。「藤岡屋日記」の著者、藤岡屋由蔵は、現在の秋葉原あたりに、露店商として古本屋を営み、傍ら、情報屋としての活動を行った。花咲一男氏の活動もまた、時間を超えた藤岡屋由蔵のそれといえるのではないだろうか。
いまは失われた江戸という、ミドルアースを現代にいきる我々に届ける情報屋として、花咲一男氏をみたてることができるのではないだろうか。
だが、花咲一男氏を江戸研究に駆り立てたものは、藤岡屋由蔵のような好奇心だけではあるまい。そこには、現在という時間軸に背を向け、徹底的に自分の好きな世界を極めんとする求道者的な意志がある。たとえ、見果てぬ夢で終わろうとも、江戸という際限がない世界のひとつの山を登り詰めようとした決意がみてとれるのだ。私自身、江戸随筆をさわりはじめて実感しているが、江戸文化は細分化されており、それぞれに歴史があり、ひとりの人間が、江戸にたちいることは、どうやっても一分野が限界である。こうしたなか、花咲一男氏のような先達の成果の恩恵を受けられる私たちは、幸福である。「雑魚のととまじり」を読み、江戸研究に興味をもたれた方は、臆することなく、花咲一男氏の著作群をひもといてほしい。そこには、摩訶不思議な江戸の魅力がはなひらいている。
posted by りき at 23:58| ロンドン | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月25日

左川ちか詩集「幻の家」をめぐって

左川ちか詩集「幻の家」が刊行された。
解説を担当しました。

現代詩手帳に、龍くんについて書いたが、朔くんについてはふれることができなかった。漫画「月に吠えらんねえ」は、作者、清家さんがとられたやりかたは、究極的な読者論とでもいうべきものだ。

今回の解説は、朔太郎にふれてみたいという私の欲望、清家さんがとった作品の印象主体で左川ちか作品を捕捉するというふたつのことをこころがけた。

引用がいっさいなく、自分の文章だけで平易に書いたのは、渡辺一考さんにいわれたエッセイの書き方を守っている。

うまくいったかはわからない。ただ、左川ちかの詩が素敵である、ということがとりわけ、初読者に伝わることを願う。
posted by りき at 23:34| ロンドン ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月03日

星新一公式サイトにイベント紹介されました。

星新一公式サイトに紹介されました。

https://t.co/IAegg1U577
posted by りき at 19:23| ロンドン | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月23日

星新一と近代文学についてトークイベントをおこないます。

イベントを開催します。

2019年11月4日 14:00〜16:00

(13時30分開場)

参加費:2000円

イベント「星新一と近代文学:太宰、川端、鴎外」

出演者:浅羽通明氏(星読ゼミナール主宰)

小野塚力(国文学研究者)

要予約 予約受付先:asabami@piko.to

終了後、懇親会あり
posted by りき at 23:17| ロンドン | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月25日

蜂須賀正氏博士「鳥の棲む氷の国」刊行

徳島の大名の末裔、華族にして鳥類学者の蜂須賀正氏博士の随筆集「鳥の棲む氷の国」を刊行しました。

特筆すべきは、蜂須賀正氏博士自身の日記をもとに執筆された、「琉球採集旅行記」です。
戦前の沖縄は、写真、記録が少なく、蜂須賀正氏博士の随筆は、大変貴重なものとなっています。蜂須賀正氏博士によって撮影された、戦前の沖縄の写真を多数、収録。
蜂須賀正氏博士の日記をもとにかかれた、沖縄旅行記は、いきいきとした沖縄の風物をえがき、蜂須賀正氏博士の海洋生物の採集、鳥類調査を丁寧に記録しています。

蜂須賀正氏博士の専門は、「不思議の国のアリス」にも登場する、絶滅した鳥、ドードー鳥。
近年、江戸時代に長崎の出島に上陸した、ドードー鳥の行方が話題ですが、「鳥の棲む氷の国」収録の「中支生物紀行」は、蜂須賀正氏博士が、長崎で、ドードーのことを調べていたことがわかります。シーボルトにもふれていて、蜂須賀正氏博士の見聞の広さにふれることができます。

「鳥の棲む氷の国」を読むと、いまだ、どこかに、あろう、蜂須賀正氏博士の日記をよみたくなること必死です。

西荻、盛林堂さまにて、取扱中です。

よろしくお願いいたします。
posted by りき at 19:33| ロンドン | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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