そはなにものぞ
ークラーク・アシュートン・スミス試論
栗本薫グインサーガ外伝「七人の魔導師」の解説で、鏡明氏が、クラーク・アシュートン・スミスは、雑誌「ウィアード・テールズ」の最高峰の作家であり、栗本薫を、クラーク・アシュートン・スミスの才になぞらえて論じていたことを記憶している。鏡明氏の言をもちだすまでもなく、雑誌「ウィアード・テールズ」に集った作家たちのうち、クラーク・アシュートン・スミスは、別格であるという評価は、よくきく。ラヴクラフト、ハワードといった作家を押しのけて、スミスだけが特別扱いをされるのはなぜだろうか?
スミスの遺した怪奇小説、ファンタジー小説を読むと、まず、気づくのは、卓越した描写力、視覚性である。異様な雰囲気のなか、グロテスクきわまりない出来事が発生しても、読み手になんとなく美的な印象を残す。正直、スミスの短編小説は、ストーリーテーリングに、そこまでの力はない。スミスの短編の長所は、ヴィジョンの鮮烈さにある。
ゾシーク、アトランティス、アヴァローニュといった連作にしても舞台が変化しただけで、作品の本質が変化するわけではない。その意味で、スミスの連作は、雰囲気が変化しているだけで、描かれている内実に変化はない。では、スミスの短編の本質、核とはなんだろうか。
怪談は、雰囲気、アトモスフィアの見せ方、維持に生命線があることを、ラフカディオ・ハーンはエッセイに書き残している。このアトモスフィアの美的形象という点からスミスの短編を捉えた場合、見事なまでの雰囲気造りに成功している。極端なことをいうと、スミスの短編は雰囲気しかない。
例えば、指輪物語を書いたトールキンは、作品世界に対し膨大な設定を背景に用意することにより、ミドルアースの世界に息吹きを吹き込み、いきいきとしたものをつくりあげた。
これに対し、スミスの短編は文章力のみで、異世界の空気感を産み出し、読者にある程度、共有させることに成功している。スミスの方法論は、初期ダンセイニの短編、内田百間の短編に近いものがある。いずれも文章力のみの力業で、読者を異様な世界に導いていく。
スミスの短編を図式的に解体すると、大多数の作品構造が、エピソードの美的頂点およびドラマティックな終焉の構築にのみ腐心している。
この点が、スミスの短編は意匠の違いはあれど、内実に差異がないと私が言い切る根拠である。舞台立ての変更は、雰囲気の変化をつけるための選択でしかないのだ。「死者の帝国」で、魔法使いに復讐する死人たちの群れを描くのも、「イルーニュの巨人」で、グロテスクな巨人を描くのも、見せ方、在りかたの違いだけで、本質に違いはないのだ。
スミスの短編が、ああした通俗的な異世界ものの舞台立てになっているのは、発表先にあわせただけで、仮にスミスの活躍先が文芸誌だったら、文芸的なニュアンスの作品を執筆したことだろう。
スミスの短編に、作家の内面性が強く刻印されたものを感じないのは、私だけだろうか。
例えば、ハワードのコナンシリーズは、母なる自然に抗う子としての英雄という構造に、ハワードの母なるものへの複雑なものを感じることができるし、ラヴクラフトならば、「インスマスを覆う影」といった少ない成功作から、ラヴクラフトのニヒリズム、自己嫌悪といった感情をひろうことができる。
だが、スミスの短編には、そうした内面のドラマの刻印は稀薄だ。私にとって、クラーク・アシュートン・スミスは、顔がない作家、無貌の作家である。その意味で、スミスの短編は、計算づくめで成り立っている。スミスの創作作法は、ポーのそれに近い。スミスの短編に、荒々しさ、勢いは薄い。無意識が介入し、偶発的になにかが展開することを許していない。たぶん、スミスは、視たものをまま形にしているのみと、いま、生きていたなら嘯いたことだろう。自らの神秘化のために。
スミスの本質は、詩人としての部分にある。スミスの短編の正体は、散文のふりをした韻文であるといっておこう。ある感情の盛り上がり、その美的解体という基本構造は、詩の創作論理に基づくものであり、小説のそれではない。だから、スミスは、長編小説を執筆しなかった。いや、できなかったのだ。必要最小限に選択された言葉で、短編小説を構築していくというスミスの方法論では、長編の執筆は不可能である。事実、ポーも、百間にも長編小説はない。ダンセイニも「エルフランドの王女」「魔法つかいの弟子」といった長編ファンタジーがあるが、短編小説の空気感とは異なり、その雰囲気は長編を書くためのそれに変化している。だからこそ、「エルフランドの王女」には、ダンセイニの一神教的な価値観と汎神論的な気
質の対立から融和という変化を認めることができる。私には長編小説を書くためには、無意識の介入を許すか否かというところにも用意が必要と感じられる。スミスの短編とは、意識的に制御された文章作法のもとに産み出されたものである。計算を超えたものの介在を認めない世界である。
スミスの短編に、作家の内実や切実さを見つけることは難しいが、スミスの短編は、馬鹿馬鹿しい構造をもったものも少なくない。たとえば、罰ゲームのように、古代の邪神たちの間をたらい回しにされる人間の非喜劇を描いた作品があるが、よくよく考えてみると、コミカルな構造であり、主人公は気の毒ではあるが、傍観者である読者からすれば、嘲りの対象でしかない。スミスの短編を、まともに構造を分析したところで得るものは少ないだろう。ここにあるのは、単なる雰囲気、それだけなのだから。
ドラえもんのなかで、スネ夫が空気の缶詰なるものを自慢する場面があった。世界各国毎の空気を缶詰にしたものだ。スミスの短編は、私には、こうした空気の缶詰の山のようにみえる。アトモスフィアのみの存在。極力、作家の内実を排したものを提供し続けた、クラーク・アシュートン・スミスは、その意味で、プロに徹した作家である。言い換えれば、読者に徹底的に奉仕し続けた作家なのだ。では、作品の内実に自己を反映させなかったのはなぜか。スミスの造った造形物やイラストの傾向をみると、この作家の表現衝動の根に、幼児的な外界への恐怖感があることが感じられる。その意味で、スミスの短編小説は、内的変換の末にグロテスクさに彩られた恐怖感の投影にすぎないという見方も成立するかもしれない。いずれにせ
よ、宇宙的恐怖というよりも小児的恐怖に貫かれたのが、スミスの短編作品である。
posted by りき at 09:05| ロンドン |
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