2017年05月15日

秋葉シスイさんの近作をめぐって

秋葉シスイ近作をめぐって

経堂にある芝生画廊のグループ展に展示された、秋葉シスイ氏の油絵の小品八点を見に行った。
秋葉シスイ氏の油絵は、混沌とした背景の中、横向きの人物が溶け込むように配置されていることが多い。だが、今回、展示された作品は、この構図のものは1点のみであった。
ほかの作品は、一羽の鳥が空中を旋回しているもの、真白ななか、他を威圧するかのように屹立した城砦のような建物を描いたもの、星空と小さな山小屋のような一軒家を描いたもの、吹雪のなかに真っ白になった山小屋のような一軒家を描いたもの、はっきりしない黒にちかい背景のみの作品、であった。
展示作品全体から、豊饒な孤独、贅沢な孤独といった一見、矛盾するような印象を得た。そして、わずかながらの物語性をも。
孤独が贅沢、豊饒であるといったときに、具体的な定義を考えると言葉に詰まってしまう。なぜなら、孤独とは、本来、無一物でたったひとり、世界と向き合うことを意味するからだ。すべてをそぎおとし、完全なる個として世界と対峙するとき、そこには、贅沢、豊饒といった感覚は決して浮かび上がることはない。だが、秋葉シスイ氏の油絵からは、本来、孤独から想定される厳しさから遠いものを感じる。秋葉シスイ氏の油絵には、たしかに孤独であることの寂しさや厳しさは刻み込まれているのだが、鑑賞者には殆ど感じ取れないまでに、濾過および稀薄なものになっている。秋葉シスイ氏の油絵は、孤独の質的変換に成功しているのだ。
描かれているモチーフからは、不安をかきたてられるはずなのに、鑑賞者をとらえてはなさないのは、この独りであることを是とする、繊細な感覚をしらず、鑑賞者に浸透させるところにある。
そして、さらなる変化を秋葉シスイ氏の油絵に私は感じた。物語性への獲得である。秋葉シスイ氏の油絵は、時間がとまったものが多かった。静止した時間は、鑑賞者それぞれのなかで解凍され、いついかなるときも古びることなく、鑑賞者毎の時間軸でよびおこされることになる。その意味で普遍的な要素を結果として秋葉シスイ氏の油絵は獲得していた。
だが、芝生画廊でみた作品群には、動的な時間進行をわずかながらに感じた。
万物流転という言葉があるように、あらゆるものは変化する。不変的なものはその意味では存在しない。そして、変化を意識したとき、そこには、はじまり、過程、結末が生まれる。一連のプロセスは最少単位の物語となるのだ。
だが、この物語は具体的な相をもっていない。どこでもない時間、どこでもない場所ではじまる、あてがない物語である。簡単に言えば、状況は設定されているが中身がない物語である。つまり、それは見る人の数だけ広がる物語である。
この物語性の発生は、画家が変化に真摯に向き合い始めた結果、導入された要素だろう。画家にとって、変化とはなにかという模索ははじまったばかりではないだろうか。そして、それは終わりがない旅路であることも自覚されているように思う。
とすれば、秋葉シスイ氏から生まれてくる作品群は、作家の模索の集積であり、日々の歩みの堆積となる。鑑賞者は、さらに自分の物語を重ね合わせ、ひとつとして同じものがない自分だけの物語を得ることになる。
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2017年05月08日

永松武夫「黄金魔人」講談会

永松武夫「黄金魔人」講談会のお知らせ

年末に発売された、黄金バットの永松武夫「黄金魔人」の販売を記念して、「黄金魔人」収録作品を、講談にしあげ、講談の会を開催することになりました。
出演は、新進気鋭の講談師、神田真紅さん。
以下の日程、内容になります

6月10日土曜日、19時から21時。
入場料 事前予約 1500円、当日2000円
定員 30人
会場は、西荻銀盛会館

予約は、参加人数とお名前を記載し、
rikichanzoochan@yahoo.co.jp
まで、お願いいたします。

なお、かなり、真剣に来場者特典を検討してます。

予約はじめてます。少しずつ、埋まってきてます
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2017年04月18日

黄金魔人講談の会やります

永松武夫「黄金魔人」講談会のお知らせ

年末に発売された、黄金バットの永松武夫「黄金魔人」の販売を記念して、「黄金魔人」収録作品を、講談にしあげ、講談の会を開催することになりました。
出演は、新進気鋭の講談師、神田真紅さん。
以下の日程、内容になります

6月10日土曜日、19時から21時。
入場料 事前予約 1500円、当日2000円
定員 30人

予約は、参加人数とお名前を記載し、
rikichanzoochan@yahoo.co.jp
まで、お願いいたします。

場所は西荻銀盛会館
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2017年02月17日

田中啓介作品集刊行のお知らせ

夭折の少年ダダイストの作品集成、田中啓介『造園学のリボンをつけた家』

         田中啓介モダニズム作品全集

書名:造園学のリボンをつけた家
           ――田中啓介モダニズム作品全集
著者:田中啓介
校閲:善渡爾宗衛
資料協力:カトウジン
解説:沼田とり
表紙デザイン:夏目ふみ
判型:A5版・160頁
予価:6,000円
刊行予定:2017年3月初旬。
限定100部

まぼろしの「少年ダダイスト田中啓介」。
稲垣足穂の「バンダライの酒場」は、大正十四年五月発行『ゲエ・ギムギガム・フルルル・ギムゲム』に掲載されました。その足穂の紹介で田中啓介は、「こはれた玩具の話」によってデビューし、大正の末から昭和の初期にかけて、彗星のように駈けぬけました。石野重道にも連なる田中啓介は、その掲載誌が『G・G・P・G』『文芸耽美』『クロネコ』『ドノゴトンカ』『狐市街』『MAVO』『戦車』『薔薇魔術学説』『影』『海の晩餐』など、どれも、超稀購モダニズム同人誌への執筆ばかりでしたので、作品の収集は絶望的だとされていました。今回、北園克衛研究家であるカトウジン氏の協力により、東都我刊我書房で、はじめて、詩・コント・小説・散文が集成されることになりました。解説は、稲垣穂足の研究家である
沼田とり氏にお願いしました。極小部数での発刊となりますので、お買い逃しのなきよう、よろしお願い申し上げます。

書肆盛林堂さんにて、二月下旬に予約開始予定。

井山さんからの告知がでました。これの製作にも、関係してます。
並行して、進めている本のひとつです。
私は、本文組み作業の一部、関係各所の調整を。
内容は、足穂の仲間だなあとわかる傾向のものばかり。
キラキラしたものが、文章の端々にうかがわれます。
モダニズム文学の逸品は、どこか、輝くところがあります。たぶん、それは、かつて、新しさの極みだったものが、時間を経て、質を変えたからだと思います。
懐しさを湛えるようになるのです。未来はどこか懐かしい。
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2017年01月22日

クラーク・アシュートン・スミス論

そはなにものぞ
ークラーク・アシュートン・スミス試論

栗本薫グインサーガ外伝「七人の魔導師」の解説で、鏡明氏が、クラーク・アシュートン・スミスは、雑誌「ウィアード・テールズ」の最高峰の作家であり、栗本薫を、クラーク・アシュートン・スミスの才になぞらえて論じていたことを記憶している。鏡明氏の言をもちだすまでもなく、雑誌「ウィアード・テールズ」に集った作家たちのうち、クラーク・アシュートン・スミスは、別格であるという評価は、よくきく。ラヴクラフト、ハワードといった作家を押しのけて、スミスだけが特別扱いをされるのはなぜだろうか?
スミスの遺した怪奇小説、ファンタジー小説を読むと、まず、気づくのは、卓越した描写力、視覚性である。異様な雰囲気のなか、グロテスクきわまりない出来事が発生しても、読み手になんとなく美的な印象を残す。正直、スミスの短編小説は、ストーリーテーリングに、そこまでの力はない。スミスの短編の長所は、ヴィジョンの鮮烈さにある。
ゾシーク、アトランティス、アヴァローニュといった連作にしても舞台が変化しただけで、作品の本質が変化するわけではない。その意味で、スミスの連作は、雰囲気が変化しているだけで、描かれている内実に変化はない。では、スミスの短編の本質、核とはなんだろうか。
怪談は、雰囲気、アトモスフィアの見せ方、維持に生命線があることを、ラフカディオ・ハーンはエッセイに書き残している。このアトモスフィアの美的形象という点からスミスの短編を捉えた場合、見事なまでの雰囲気造りに成功している。極端なことをいうと、スミスの短編は雰囲気しかない。
例えば、指輪物語を書いたトールキンは、作品世界に対し膨大な設定を背景に用意することにより、ミドルアースの世界に息吹きを吹き込み、いきいきとしたものをつくりあげた。
これに対し、スミスの短編は文章力のみで、異世界の空気感を産み出し、読者にある程度、共有させることに成功している。スミスの方法論は、初期ダンセイニの短編、内田百間の短編に近いものがある。いずれも文章力のみの力業で、読者を異様な世界に導いていく。
スミスの短編を図式的に解体すると、大多数の作品構造が、エピソードの美的頂点およびドラマティックな終焉の構築にのみ腐心している。
この点が、スミスの短編は意匠の違いはあれど、内実に差異がないと私が言い切る根拠である。舞台立ての変更は、雰囲気の変化をつけるための選択でしかないのだ。「死者の帝国」で、魔法使いに復讐する死人たちの群れを描くのも、「イルーニュの巨人」で、グロテスクな巨人を描くのも、見せ方、在りかたの違いだけで、本質に違いはないのだ。
スミスの短編が、ああした通俗的な異世界ものの舞台立てになっているのは、発表先にあわせただけで、仮にスミスの活躍先が文芸誌だったら、文芸的なニュアンスの作品を執筆したことだろう。
スミスの短編に、作家の内面性が強く刻印されたものを感じないのは、私だけだろうか。
例えば、ハワードのコナンシリーズは、母なる自然に抗う子としての英雄という構造に、ハワードの母なるものへの複雑なものを感じることができるし、ラヴクラフトならば、「インスマスを覆う影」といった少ない成功作から、ラヴクラフトのニヒリズム、自己嫌悪といった感情をひろうことができる。
だが、スミスの短編には、そうした内面のドラマの刻印は稀薄だ。私にとって、クラーク・アシュートン・スミスは、顔がない作家、無貌の作家である。その意味で、スミスの短編は、計算づくめで成り立っている。スミスの創作作法は、ポーのそれに近い。スミスの短編に、荒々しさ、勢いは薄い。無意識が介入し、偶発的になにかが展開することを許していない。たぶん、スミスは、視たものをまま形にしているのみと、いま、生きていたなら嘯いたことだろう。自らの神秘化のために。
スミスの本質は、詩人としての部分にある。スミスの短編の正体は、散文のふりをした韻文であるといっておこう。ある感情の盛り上がり、その美的解体という基本構造は、詩の創作論理に基づくものであり、小説のそれではない。だから、スミスは、長編小説を執筆しなかった。いや、できなかったのだ。必要最小限に選択された言葉で、短編小説を構築していくというスミスの方法論では、長編の執筆は不可能である。事実、ポーも、百間にも長編小説はない。ダンセイニも「エルフランドの王女」「魔法つかいの弟子」といった長編ファンタジーがあるが、短編小説の空気感とは異なり、その雰囲気は長編を書くためのそれに変化している。だからこそ、「エルフランドの王女」には、ダンセイニの一神教的な価値観と汎神論的な気
質の対立から融和という変化を認めることができる。私には長編小説を書くためには、無意識の介入を許すか否かというところにも用意が必要と感じられる。スミスの短編とは、意識的に制御された文章作法のもとに産み出されたものである。計算を超えたものの介在を認めない世界である。
スミスの短編に、作家の内実や切実さを見つけることは難しいが、スミスの短編は、馬鹿馬鹿しい構造をもったものも少なくない。たとえば、罰ゲームのように、古代の邪神たちの間をたらい回しにされる人間の非喜劇を描いた作品があるが、よくよく考えてみると、コミカルな構造であり、主人公は気の毒ではあるが、傍観者である読者からすれば、嘲りの対象でしかない。スミスの短編を、まともに構造を分析したところで得るものは少ないだろう。ここにあるのは、単なる雰囲気、それだけなのだから。
ドラえもんのなかで、スネ夫が空気の缶詰なるものを自慢する場面があった。世界各国毎の空気を缶詰にしたものだ。スミスの短編は、私には、こうした空気の缶詰の山のようにみえる。アトモスフィアのみの存在。極力、作家の内実を排したものを提供し続けた、クラーク・アシュートン・スミスは、その意味で、プロに徹した作家である。言い換えれば、読者に徹底的に奉仕し続けた作家なのだ。では、作品の内実に自己を反映させなかったのはなぜか。スミスの造った造形物やイラストの傾向をみると、この作家の表現衝動の根に、幼児的な外界への恐怖感があることが感じられる。その意味で、スミスの短編小説は、内的変換の末にグロテスクさに彩られた恐怖感の投影にすぎないという見方も成立するかもしれない。いずれにせ
よ、宇宙的恐怖というよりも小児的恐怖に貫かれたのが、スミスの短編作品である。
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2016年12月02日

この世界の片隅に をみて

「この世界の片隅に」の空気観、見終わったときの印象は、よくできた私小説を読んだ感じにも似ている。たぶん、空間のスケール感によるものだと思う。「この世界の片隅に」とあるように、この映画は、壮大なドラマをあつかったものではない。戦時のある女性と嫁ぎ先の家の物語である。敗戦に向けて、広島の原爆投下に向けて、日々は淡々と過ぎ去っていく。国に翻弄される、すずや周囲の人々の生活が丹念に描かれている。この監督は、ジブリのよいところをいくつか移植している。そのうち、もっとも機能しているのが、調理シーン、食事シーンの繊細な描写である。アニメ「アルプスの少女ハイジ」、「天空の城ラピュタ」、「魔女の宅急便」などにみられる特徴だ。さらに、兵器の描きかた、戦時の呉、広島の街並みの描
きかたは、広瀬正「マイナスゼロ」の銀座の描写並にこだわりをもって仕上げられている。
物語の細部に奇跡は宿るというが、「この世界の片隅に」は、細部の描写に魅力があるのだ。
そして、背景となる戦時は、淡々と描かれている分、観客にさまざまな問いかけをする。そう、「この世界の片隅に」は、プロパガンタになっていないのだ。
戦争について考えたときに、思うのは、戦時における文学者のありかただ。戦前、前衛詩人として活躍した北園克衛は、戦後、黙殺された。北園の黙殺には、複数の理由があるが、ひとつに、戦時中に特高に連行され、戦争協力詩を執筆したことがあるだろう。
戦後、戦争協力、賛美した文学者は、いささかヒステリックな感情を含んだ断罪に近い評価を受けた。敗戦により、すべての戦時中の価値観がひっくり返り、その結果を受けて、だ。
私には単なる後だしじゃんけんにしかみえないが。
すずの敗戦を告げる玉音放送のあとの慟哭こそ、大半の国民の感情だろう。「なんのためにいままで?」という。
まま、描き、裁くことを避ける監督の演出は、際立った成功をおさめている。
「この世界の片隅に」は、戦時の衣食住、眠り、性、食欲の人間の三大欲求を淡々とまちがいがないように描きつつ、民話的なファンタジーとしてまとめられている。主人公、すずが、物語る人であり、また、作家性をもった女性であったからこそ、成立する仕掛けである。
苦楽をわけへだてなく描いた「この世界の片隅に」は、間違いなく、戦争をあつかった作品群のある到達点である。
posted by りき at 07:23| ロンドン | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月24日

マコトフジムラさんのトークイベント

11月9日、16時から、
西荻にある、ギャラリー数奇和さまで、
アーティスト、マコトフジムラさんのトークイベントで、聴きてとして参加します。
予約は不要です。入場無料。

よろしくお願いします
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2016年10月06日

三田たたみ「めぐる季節の回文短歌」をよんで

三田たたみ「めぐる季節の回文短歌」をよんで

回文は、江戸の言葉遊びのひとつである。上から読んでも、下から読んでも同じ読みになる文章を考えるものだ。本書に収録された、短歌は、回文であり、かつ俳句のように季語をもち、さらに、鑑賞のための一助になるように解説代わりの短編が短歌ひとつひとつについているという至れり尽くせりのものとなっている。考えてみると、いついかなるときも季節はめぐり、変化をしつつ、循環しているのが世のあり方である。その意味で回文は世界の根本的なあり方を体現している。世界は回文であるともいえるのかもしれない。
三田たたみ氏が、回文短歌を試みたのは、潜在的に、回文のこうした性質に惹かれているからではないだろうか。簡単に世界をてにいれることができるからだ。回文短歌とは、きわめて小規模な世界征服の試みである。
回文は、ウロボロス的でもある。自らの尾をくわえた蛇は、時間の象徴でもある。循環、反復を意識させるウロボロスを回文の文脈で考えると、回文の可視化したものともいえるのかもしれない。思い出すのは、「はてしない物語」にでてくる、御守アウリンが、ウロボロスの形に似た二匹の蛇の組み合わせで成り立っていることだ。「はてしない物語」も終わることを拒絶している。アウリンの形は、「はてしない物語」の構造を反映している。回文短歌は、「はてしない物語」がコンパクト化したものなのかもしれない。
三田たたみ氏の回文短歌は、回文であり、短歌であり、俳句的であり、短編と組合わさることで超短編的でもある。非常に贅沢なつくりの本であり、意欲的なつくりともいえる。その複合的な構造は、
実験的でもあり、前衛的なものも感じる。
まずは、この新しい試みを行った、三田たたみ氏に拍手をおくりたい。
posted by りき at 20:43| ロンドン | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月05日

タカスギシンタロ超短編集「ピアノ」を読んで

タカスギシンタロ超短編集「ピアノ」を巡って


私が超短編というムーブメントに深入りしたのは、ひとえに、タカスギシンタロの超短編が好きだからだ。それに尽きる。先日、電子書籍で発売された、タカスギシンタロ超短編集「ピアノ」は、待望の一冊である。
タカスギシンタロの超短編の特徴は、端正さと意外性の組み合わせの絶妙さにある。さらに、しれっとしたブラックユーモアも混ざるので、油断ならない世界である。
その短さにかかわらず、タカスギシンタロが超短編ひとつを仕上げるのに、並々ならぬ時間をかけているのは、読めばわかることだ。物語ひとつ仕上げるのは長さにかかわらず、大変であるということだ。
タカスギシンタロが、江戸雑俳にあかるいことは知られている。タカスギシンタロ作品に顕著な洒落た感覚は、このあたりの消息を伝えている。
集中、私がもっとも好きな超短編は、「サファイア」である。瞬間の永遠化をまさに体現しているからだ。
ひとつ思うのは、この超短編集がでた意味は区切りであるとともに、次世代の超短編の書き手をつくる誘い水になるということだ。
次なる超短編がいかなるものか。個人的な願望でしかないが、もっともっと虚構であることを満喫させるものであってほしい。カミ「ルーホックオルメスの冒険」のような。
posted by りき at 19:53| ロンドン | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月08日

川端裕人さんとの交流会

改めて告知。

11月3日、作家の川端裕人さんを囲む会をやります。趣旨は、絶滅動物、特にドードーについて、みなでわいわい語る交流会です。

川端裕人さんは、メルマガで、ドードー鳥を巡るエッセイを連載中。
江戸時代に、長崎の出島に生きたドードーがきていたことを皮切りに、いま、連載は、ドードーのはく製が所蔵されているオックスフォード博物館に。

川端裕人さんは、動物をめぐるノンフィクションからさまざまなジャンルに取材した小説まで、幅広い領域で活躍中です。

世界中をかけめぐる川端さんは、日本国内にあまり長期滞在されない印象があります。今度の交流会は、多忙な川端さんと間近で話ができる貴重な会です。

開催日 2016年11月3日 17時から20時
会場 西荻 喫茶凸 イベントSPACE
定員 10名くらい
会費 500円くらい

予約は、rikichanzoochanアットマークyahoo.co.jp

人数埋まってきてます。迷われてる方、お早めに
posted by りき at 07:42| ロンドン | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月01日

山下昇平詩画集「そらいろくさむら」

山下昇平詩画集「そらいろくさむら」紹介

アーティスト、山下昇平氏の黒い少女たちの連作ドローイングに、幻の閨秀作家、遠野美奈子氏が短詩形を執筆、一冊としたのが、本書である。
普及版、豪華版と制作され、豪華版は、A4サイズ、フランス装、画集としての機能を追及した贅沢なつくりとなっている。
本書の最大の特徴は、あの種田山頭火の俳句が、効果的に引用されている点だろう。黒い少女たちの物語のために用意されたかのような錯覚を起こしてしまうくらいだ。
原画つき、15000円で、盛林堂通販サイトなどで販売中。
posted by りき at 23:10| ロンドン | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月30日

「不機嫌な姫とブルックナー団」感想

高原英理「不機嫌な姫とブルックナー団」を読んで


読後、思い出したのは、河野多恵子の作家は自らの精神的眷族を増やすために小説を書くという言葉だった。或る特定の読者に突き刺さるような印象を残す小説である。不恰好で不器用で、スマートではないブルックナーの曲を愛する女性とブルックナー団なる、ブルックナー愛好家三人の喧々諤々の交流を描く。
成功した作家、三島由紀夫の裏側には、成功することなく埋没した、無数の三島由紀夫の候補がいると述べた哲学者の記述をもちだすまでもなく、成功者よりも無惨な敗北者の数の方が圧倒的である。考えてみれば、世にサクセスストーリーは溢れていても、日陰者の日々を描いたものはない。破滅型の私小説作家であっても、小説という形で発表され、なんらかの利益、名誉を生んだ時点で、日は当たっている。そもそも、日陰者は無名の存在だ。私からすれば、いわゆる成功者は、単に運がよかっただけのように思う。本書は、運に恵まれなかった大多数の側を敢えてとりあげている。そのありかたには、なりふりかまわぬ切実さすら感じられる。登場人物達のような生きづらさ、閉塞感を感じている読者に深い共感をもって迎えられ
る小説だとおもう。垂野創一朗氏のブログの一節に、本書をラヴクラフト「インスマスを覆う影」になぞらえている部分がある。その意味では、この「不機嫌な姫とブルックナー団」は、「ゴシックハート」の続きでもあるし、「抒情的恐怖群」を補完するものでもあるのだろう。高原英理氏が、かつて中井英夫論のなかで定義したように、幻想文学は、作家の資質で決定されるなら、幻想文学者である、高原英理氏により執筆された本書もまた、幻想文学といえるのではないだろうか。
幻想文学とは、生きづらさを最も極端な形で表現したものをさすのだから
posted by りき at 07:39| ロンドン | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月26日

絶滅動物、ドードーの集り





ドードー、絶滅動物に興味がある方、集まれ!

江戸時代に日本にきていた、あのドードー鳥の行方を追跡調査中の作家、川端裕人さんとの交流会を開催します。
ドードーや絶滅動物にご興味があるあなた、川端裕人さんから最新の研究動向を聞き出す絶好のチャンスです。また、同好の士を見つけるよい機会です。奮ってご参加ください。

以下の要領で開催いたします。

日程 11月3日、17時00分から20時00分
場所 西荻喫茶凸 イベントスペース
定員 10名程度
会費 500円から800円くらい お茶、お菓子代込み
要予約
ご希望の方は、以下に、予約者名、参加人数を連絡ください。

rikichanzoochanあっとマークyahoo.co.jp
posted by りき at 18:19| ロンドン | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月29日

「不思議の国のアリスを超短編として読む」

Amazonで、うのけ出版から、はじめての単独著作になる「不思議の国のアリスを超短編として読む」が、Kindle版で、発売になりました。電子書籍です。

「アフター0」や「ドラえもん」、高泉淳子さんについての評論も作中作として登場します。

星新一論も同時収録されています。
posted by りき at 07:31| ロンドン ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月29日

井村先生講演会

アイルランド文学研究会 夏の特別編 井村君江先生講演会

第三回目の開催となる、アイルランド文学研究会ですが、今回は顧問、井村君江先生の講演会を開催します。
テーマは、アイルランド文学の精力的な訳業でしられる、松村みね子こと片山広子と作家、芥川龍之介についてです。
片山広子と芥川といえば、大正末期的の軽井沢での交遊がしられています。井村先生に、片山広子、芥川龍之介、芥川に師事し「聖家族」を著した、堀辰雄についてもおはなしいただく予定です

開催日時
8月29日、15時から17時
場所
西荻 信愛書店
定員 18名
参加費 1000円
要予約

予約は、rikichanzoochan@yahoo.co.jp
なお、会ですが、終了後、同会場で簡単な懇親会をおこないます
こちらは参加費は500円前後を予定しています。
posted by りき at 06:30| ロンドン ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月08日

講談と超短編イベント

7月11日、西荻銀盛会館で、講談と超短編のイベントを開催します。
ゲストは、講談師、神田真紅さん。
西荻にゆかりがある方です。
SF好きで、ゲームにも造詣が深いとのこと

お席にまだまだ余裕ございます
詳細は
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/217614/126363/82580804
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2015年04月23日

世界の涯復刻のこと

蜂須賀正氏博士「世界の涯」限定復刻のお知らせ

日本生物地理学会創始者の一人であり、絶滅鳥ドードーの研究でしられる、華族にして鳥類学者、蜂須賀正氏博士の随筆集「世界の涯」を部分復刻しました。内容としては、「ドド」「モアの話」「世界一の剥製屋」を収録。「ドド」は蜂須賀正氏博士の博士論文を一般向けになおしたもの、「モアの話」は、ニュージーランドの絶滅した飛べない鳥モアについて書いたもの、「世界一の剥製屋」は、イギリスでの各国の博物学者との交遊を描いています。漫画家、玉川重機氏による、美麗な挿し絵を書き下ろしで7点収録。
造本は、輕フランス装、アンカット、糸かがり、外装は、ノーベル賞の表彰状に使用されている、フランスの高級紙、ムーラン紙銀鼠色を使用。限定200部。定価6500円。
販売は、西荻盛林堂書房にて
http://seirindousyobou.cart.fc2.com/ca4/67/

また、肉筆原画いりの豪華本もあります。総山羊革、四段マウント、カット済み、玉川重機氏による肉筆原画いり。限定7部。
定価80000円。こちらのお問い合わせは、rikichanzoochan@yahoo.co.jp
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2015年04月22日

蜂須賀正氏博士「世界の涯」について

蜂須賀正氏博士の随筆集「世界の涯
」を復刻しました。
おもとめは、西荻盛林堂さんにお願いいたします

また、世界の涯豪華本、完成しました
山羊革四段マウント、玉川重機さんの肉筆原画いり。今日いま時点、西荻盛林堂さんで一冊販売中です。
興味ある方は、西荻盛林堂さんのサイトをごらんください
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2015年03月15日

蜂須賀正氏「世界の涯」トークイベント開催

以下の要領で、世界の涯刊行記念トークイベントを開催いたします。

開催日時
4月18日 19時から21時
場所
西荻 信愛書店engawa
出演
玉川重機先生
小野塚力
司会
タカスギシンタロさん

トーク内容は、メイキングオブ世界の涯になりますが、文学、博物学を横断する話をします。アリス、ドラえもん、アフター0にもふれます。江戸時代の風俗についても

定員30人
参加費用は1000円

要予約となります
rikichanzoochan@yahoo.co.jpまでに
お名前と参加人数を連絡ください
折り返し返信メールを送ります
posted by りき at 21:43| ロンドン ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月23日

世界の涯発売の件

蜂須賀正氏のエッセイ集「世界の涯」は、3月1日発売です
また、3月14日夜18時から21時、西荻案内所にて、玉川重機先生サイン会をおこないます
当日、世界の涯をおもちいただければ、サインをする形になります
事前予約不要です
posted by りき at 06:50| ロンドン ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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