「富士」は、狂気と正気の区分とはなにかという大枠のなかで、諸概念の懐疑をおしすすめる。結果として、境界は破壊され、すべては一義化される。では、泰淳の目的が単なる相対化であったのかというならば、そうではない。最終章のタイトルが「神の指」となっているように、いま、ここにあることの肯定というところにいったん、着地させているのだ。このあたりのニュアンスは、存在の〈革命〉を目指した埴谷とはいささか異なるところだ。埴谷の攻撃性は、泰淳「富士」から感じられない。
埴谷の措定する絶対性が、西洋的な「神」概念のそれであることは、短篇「宇宙の墓場」でもあきらかだ。埴谷は、西洋的な世界観のもと、諸概念の糾弾を試みる。梶井基次郎「闇の絵巻」は、「闇のなかの黒い馬」で埴谷が目指した理想形ともいうべき境地にある作品だ。感性と思考がむりのない形で一致しているからだろう。
ただ、「富士」を読み終わった私を襲ったものは、痛烈な違和感であった。「富士」「死霊」で扱われる題材のうち、とりわけ、存在や意識にかかわるもの、埴谷作品についていえば宇宙にかかわる論議全般が、ピンとこないのだ。こうした境地のものを扱うのに、文学という物差しは不適切ではないのかという疑問である。
いま、ここにあること、存在という問題を考えたときに否応なしに、この地球を含む化学的な歴史、生物学的な歴史に向き合わざるを得ない。そして、そこから窺われるのは、あらゆる生物は栄枯盛衰をくりかえし、不変という概念が不在であるということだ。そして、人類という種もまた例外ではない。私には、埴谷にしろ、泰淳にしろ、人間という存在への安心感がどこかにあるように感じられる。おそらく、このニュアンスこそが「時代」であり、作家は時代の子というが、かれら戦後派が、戦争という破局をへて、新しい文学をつくりあげるという未来を信じていたことを強く感じさせるものとなっている。物語の基調が悲観的ではないのは、それが理由だろう。この在りかたは、香山滋の基調底音とは対照的である。香山滋は、退嬰的であり、世捨て人のような態度を示している。これは、香山滋の文学的出発のひとつに、『前世界史』があったことによるものだろう。その意味で、香山滋は、生物学的視点から得た感覚、諸行無常を、自己の創作の核としている。
思うに、小説でとりあつかいうるものは、具体性をもったものに限られるのではないだろうか。観念そのものを取り扱うことはできないと考えざるを得ない。遠藤周作「沈黙」と「富士」や「死霊」の読後感があまりに違うからだ。「沈黙」が、物語の叙述にしたがい、登場人物の心理や行動に無理なく、テーマが託され、読者にも納得のいく形で提示されているのに対し、「富士」「死霊」は、会話、独白によって具体性をもたないまま、テーマが処理されている。作家は、小説に対し、なにをかくのも自由だし、なんでもありだというだろう。だが、読者からすれば、その作品に対し、きちんとした腹オチをしたかどうかということは表明する権利がある。現在の私からすると、埴谷、泰淳のありかたには、NOといわざるを得ない。やりたいこともわかる、方向性もかっこいい。だが、手段がまちがっているのではないかといわざるをえない。
異論はあると思うが、作品なんざ、面白いかそうでないか。その二択でしかない。また、その感想も千差万別である。ここにおける意見表明もまた、一読者の感想であり、普遍的なものではないことを断っておく。