高原英理「観念結晶大系」は、「憧れ」をめぐる物語である。
本作の特徴は、このテーマを、エンターテイメント作品の手法ではなく、文藝作品として描ききったところにある。取り上げらた舞台装置、言及対象には、作者個人の嗜好があきらかに反映されているところがある。こうしたありかたには、「好きなものを好きなように語りたい」という開き直りにもにたものすら感じる。
あらゆる文学作品は、作家の主観から逃れえないとするならば、「観念結晶大系」に託された、ひたむきに彼方を見詰めようとする意思とはなんだろうか。
ままならぬ現実への焦慮、というのは安易だろう。
ここには、創作者の多くがかかえる原始的な意識、世界改変の思いの投影があると私は考える。
いま、ここに充足している人間は、虚構を必要としない。不満がなければ、なんら行動を起こす必要がないからだ。
満たされた自分に満足し、ただ、目を閉じていればよい。
だが、刮目し、彼方をみつめつづけることをやめぬ人々もいるのだ。
その意味において「観念結晶大系」は、分析を拒む物語だ。本書に対して、読者は、肯定か、否定かを選ぶしかない。
インナースペースの希求を主題とし、シュルリアリスムの手法をとりいれ、SFにおける文藝性を追及した、ニューウェイブSFの流れをくむ、荒巻義雄や山野浩一といった作家たちの作品世界は、本書に似た境地をめざしている。だか、「観念結晶大系」は、ジャンルの保護がはたらかない、幻想文学の枠組で描かれた作品である。
幻想文学とは、なにか。簡単にいえば、極をめざす文学作品である。極とは、なにか。それ以上なにも存在しえない行き止まりである。美も醜も同一のものとして扱われる場だ。
「観念結晶大系」は、最終境地をめざした作品なのだ。著者の命がけの探索の軌跡がまとめられている。