本書「雑魚のととまじり」は、花咲一男氏の成田在住時代の「米翁日記ノート」に並ぶ貴重な収穫だ。どなたかが指摘しているように、花咲一男氏の興味が、モノから人に移動した時期の所産ともいえる。
私が花咲一男氏の著作を集中的に読み込み出したのは、日本上陸直後のラフカディオ・ハーンが見たものをしりたいと思ったからだ。ハーン、小泉八雲が感激したものは、急速な西欧化を進める明治時代の事物ではなく、失われ行く江戸の残滓だったはずだからだ。しかも、八雲の目線は庶民のそれを意図的に重ねる。近世庶民風俗研究者の花咲一男氏の仕事にたどりつくのは、必然だったともいえよう。花咲一男氏の存在は、本書を一読いただければわかるように、江戸研究、探偵小説、古本、国内外の文学作品といった各ジャンルをひとりでつなぎとめる、ミッシングリングのようなものだ。花咲一男氏への追悼文のなかで、濱田雄介氏は、江戸川乱歩のエッセイに登場する、「黒死館殺人事件」一冊をもって出征した人物が、とうの花咲一男氏であることを書き留めている。実際、本書「雑魚のととまじり」の言及範囲の幅広さには、驚くばかりだ。
花咲一男氏の著作群の特徴をいくつかあげると、堅実な実証、圧倒的な情報量などがあげられる。ただ、私は「江戸の人魚たち」、「江戸魚釣り百姿」、「近世風俗雑考」などにかいまみえる、花咲一男氏のエッセイめいた記述にも魅力を感じる。まるで、親しい老爺から面白い思い出話を聴いているような感覚すらおぼえるからだ。本書の中心をなす話題は、江戸川乱歩との驚くべき交遊、高橋鐵とのかかわりなどなどいろいろあるが、永井荷風筆とされる「四畳半襖の下張」をめぐる興味深い記述がある。「四畳半襖の下張」は、さまざまなテキストが流布しているが、私がもっとも校訂がいきとどいていると思うのは、豆本で刊行された、生田耕作校訂による「四畳半襖の下張」である。一級の文学者が渾身のちからで校訂しただけあって、圧倒的に読みやすいのだ。なお、「四畳半襖の下張」をめぐる一連の事件は、主犯とされた、平井呈一の異様に歯切の悪いインタビュー記事にすべてが尽きているように思う。私がきになるのは、「雑魚のととまじり」に記載されたもうひとつの永井荷風筆という猥本である。おそらく、どこかには存在しているにちがいない。
花咲一男氏の江戸をめぐる文章に、ポーやボードレールの引用がなされる背景も、本書を読むと了解できよう。リラダンを愛し、渡辺一夫に私淑し、筆名にその一部をとりいれた花咲一男氏の江戸研究の最大の特徴といえる軟文学への特化は、フランス文学にも顕著な風流ものの流れを組むものともいえる。とすれば、花咲一男氏の活動は、戦後の矢野目源一のそれと軌道を一つとするようにも感じられる。花咲一男氏が、軟らかい文学をとりあげた、興味をもったのは、そこには、人間の変わることがない生々しい生態が露わになっているからだろう。「末摘花」などに収録されたきわどい川柳にうかびあがる、おおらかなエロティシズムは、それ自体がある種の反時代性を帯びる。花咲一男氏のエロティシズムを中核に据えた江戸軟文学の研究成果は、花咲一男氏自身のアナーキーさを体現している。
さらにいえば、矢野目源一は、江戸の歌舞音曲を翻訳に積極的に投影した翻訳家だ。矢野目源一の訳業は、同人誌「サバト」参加以前と以降で質が大きく異なる。同人誌「詩王」時代の翻訳は、素直な訳しぶりであり、実作も真っ直ぐな抒情詩であった。それが「サバト」以降、江戸の香に満ちた趣味性の高いものに変貌する。矢野目源一に江戸趣味を投入したのは、多分、城左門だったと思われる。もしかしたら、正岡容の薫陶もあったかもしれない。いずれにせよ、日夏耿之介門下による、江戸趣味の洗礼を受けた結果、矢野目源一の文業の質は一変する。文藝愛好家から探偵小説愛好家に変化し、江戸川乱歩との交遊から、江戸研究者となった、花咲一男氏の歩みにもまた、矢野目源一に似たものを感じる。それは、決定的な影響力をもつ存在に、その後の歩み、人生まで決められてしまうという在りかただ。
江戸研究者、花咲一男氏は、江戸川乱歩抜きには語れない。それは、また、江戸川乱歩を語るうえで、江戸を外すことはできないということでもある。
乱歩の探偵小説の秘密は、江戸にある。江戸川乱歩における、江戸の影響こそ、変格探偵小説をかきつづけることになった理由が隠されている。乱歩が愛した「白縫譚」は、鏡花が愛好した草双紙である。鏡花が意図的に理想化された江戸を自作にとりこんだように、アナーキーな江戸のパワーに似たものを、乱歩は、探偵小説に見いだしていたのではないだろうか。
いかがわしいとして、坪内逍遙に切り捨てられた、近世文学やヴェルヌの冒険譚がもつ熱気、狂気の復活を、乱歩は、探偵小説というジャンルのなかで企てたのではないだろうか。ふりかえれば、SFにしても、もともとは、変格探偵小説のひとつとしてはじまっているのだ。乱歩は、まちがいなく、探偵小説のジャンルとしての柔軟性、網羅性に気づいていたはずだ。そうしたとき、乱歩の企みの共犯者のひとりとして、花咲一男氏は、その姿を現す。探偵小説とのかかわりからも、今後、花咲一男氏の営みは、再評価されていくものと私は信じている。
花咲一男氏のたたずまいから、私は、江戸後期から幕末にかけて膨大な記録を書き留めた、「藤岡屋日記」の著者を思い出す。「藤岡屋日記」の著者、藤岡屋由蔵は、現在の秋葉原あたりに、露店商として古本屋を営み、傍ら、情報屋としての活動を行った。花咲一男氏の活動もまた、時間を超えた藤岡屋由蔵のそれといえるのではないだろうか。
いまは失われた江戸という、ミドルアースを現代にいきる我々に届ける情報屋として、花咲一男氏をみたてることができるのではないだろうか。
だが、花咲一男氏を江戸研究に駆り立てたものは、藤岡屋由蔵のような好奇心だけではあるまい。そこには、現在という時間軸に背を向け、徹底的に自分の好きな世界を極めんとする求道者的な意志がある。たとえ、見果てぬ夢で終わろうとも、江戸という際限がない世界のひとつの山を登り詰めようとした決意がみてとれるのだ。私自身、江戸随筆をさわりはじめて実感しているが、江戸文化は細分化されており、それぞれに歴史があり、ひとりの人間が、江戸にたちいることは、どうやっても一分野が限界である。こうしたなか、花咲一男氏のような先達の成果の恩恵を受けられる私たちは、幸福である。「雑魚のととまじり」を読み、江戸研究に興味をもたれた方は、臆することなく、花咲一男氏の著作群をひもといてほしい。そこには、摩訶不思議な江戸の魅力がはなひらいている。