当時、森開社と田村書店から発売された「左川ちか全詩集」は入手困難。弓生さんが全貌を知りたがっている、この女性詩人の作品をなんとかして読みたくなった。
北海道の古本屋で販売されているのをみつけ、ネットで注文し、入手した。
ちょうど、江古田文学系列の同人誌が、左川ちか特集をしていたのもおぼえている。
たぶん、2009年くらいだと思う。
その年の夏、荻窪のミニヨンで、モダニズム茶話会をやり、左川ちかをとりあげた。このときは、赤井都さんも茶話会に参加、その後、左川ちか豆本を赤井さんが製作するきっかけになった。
弓生さんは、その後、同人誌ファンタストに、左川ちか論を発表、歌集「薄い街」の巻頭に、加筆され収録された。
左川ちかの詩は、独特である。
「昆虫」は、モダニズム詩らしい硬いイメージがあるが、大半の作品は、分類不可能なものとなっている。
多くの詩に目立つのは、「死」に隣接したイメージが、詩の内側にあること。それでいて、語彙は、たしかに、あの時代のものを感じさせるものとなっている。左川ちかの実験精神は、詩から完全に意味を喪失させるものではなかった。
詩の内実を質的な変化をもとめたのだろう。
伊藤整と左川ちかの親しい間柄については、いくつか証言がある。
ジョイス「室学」の翻訳は、伊藤整からの示唆によるものだろう。
尾崎翠は、「こおろぎ嬢」で、フィオナ・マクラウドに言及し、左川ちかは、ジョイスの翻訳を遺した。アイルランド文学とのかかわりから、尾崎翠、左川ちかを眺めたとき、左川ちかにとって、アイルランド文学は、そう決定的なものではなかったろう。片山広子にとってのそれとは大きく異なる。
むしろ、伊藤整からの外的影響のあとをみるばかりだ。
左川ちかの詩は、バリアントが多い。
詩は、余白、行間にも詩人の意思がある。発表毎に、なんかしらの操作を加える、左川ちかは、蒲原有明や稲垣足穂のように、自作に手をいれつづけた。
死後にでた、伊藤整編纂という、椎ノ木版「左川ちか全詩集」は、左川ちか本人の校訂を経ていないため、厳密には決定版とはいえない。
6月に刊行される、新編左川ちか詩集は、可能なかぎり、初出に揃えている。つまり、詩人の意思がある版で内容を整えている。これだけでも、先行する三冊の左川ちか全詩集とは、別物であろう。
かつ、室学は、原典との対比校訂まで行っているのだ。
いま、どれだけの読者が、左川ちかを求めているか、わからない。だが、かつて、二階堂奥歯さんが愛読し、歌人、佐藤弓生さんの心をとらえ、森開社社長、小野夕氏がライフワークとして研究に生涯をかけただけのものを、左川ちかの詩にはあるのだ。