小野塚 力
ジュリアン・グラックという作家を知ったのは、倉橋由美子のエッセイ集「偏愛文学館」からだった。
グラック「アルゴールの城」「シルトの岸邊」が取り上げられており、倉橋の絶賛ともいえる評価に興味を覚えたのだ。
「アルゴールの城」「シルトの岸邊」を読む限り、グラックという作家は、ある予感、気配、兆しのようなものに執着している。
決定的ななにかが訪れる寸前の緊張感のようなものに囚われているのだ。
これは短篇集「半島」にも共通する感覚であり、私が読む限り、グラックという作家は、注意深く、断定的な世界観を避けている。
これはもしかすると、グラックなりに二元的世界観からの脱出を試みた結果なのかもしれない。
本書は、そんな謎めいた作家グラックが直情的に歌い上げた散文詩十二篇が収録されている。
訳者、松本完治氏の平易かつ見事な訳文と挿画を担当した、山下陽子氏の雰囲気あるコラージュ作品が見事なハーモニーを
つくりだしている。造本も美しく、贅沢な一冊である。
グラックの直線的な熱情は誰に向けられたものだろう。
私には、特定の誰かではなく、誰でもあり、誰でもない<何か>にむけられたもののようにかんじられる。
結局、グラックが「アルゴールの城」「シルトの岸邊」で断定できないなにかを描こうとしていたことを
考えると、たぶん、言語化を拒む<何か>としかいいようがないのだ。
そうしたとき、山下陽子氏の作品が醸し出す美的な静謐さ・静けさにも、同一の方向性を感じるのだ。
山下陽子作品の多くにみられる「余白」は、作品自体の静けさを示すものであると同時に、語り得ぬ余韻のようなものが
仮託されている。
グラックの眼はおそらく、そうした言語化できぬ先にひろがる余白・余韻に向けられているのだ。
「異国の女に捧ぐ散文」は、「シルトの岸邊」「アルゴールの城」と同じ方向性を目指しているにもかかわらず、
直接的なアプローチにより、「シルトの岸邊」「アルゴールの城」の書かれることがない作中世界外の部分に、どれだけの
熱量が眠っているのかを暗示する。
グラックの彼方への思いが熱く語られていると考えるならば、「異国の女に捧ぐ散文」とは、
グラック流の超越的なものへの宣言書ともいえるだろう。
特定し得ぬ<何か>への思い。焦りにも似た思いは、グラックの苦悩に反比例するかのように、読者の胸に迫るものがある。