2011年12月31日

北川健次「皮膜を擦る視線の裂より」展評


 北川健次「皮膜を擦る視線の裂より」展評
                      北川健次氏の二十代から三十代にかけて製作された初期作品群に底流するのは、視ることとはなにかという問いかけとそれと同時に浮かび上がる時間への凝視ともいうべきものだった。カフカの子供時代の写真と貝殻の写真とを対比させた「F・カフカ高等学校幼学年時代」、重ねられたフレームの奥から鑑賞者をみつめかえすように仕向けられたボードレールの肖像を収めた「頭文字I」、少女たちの集合写真に消え去る文字列を重ねた「六番目の少女」、暗闇の奥からかすかにうかびあがる呪われた詩人ランボーの肖像を描いた「RIMBAUD」といった、モノトーンの銅版画を中心とした展示であった。
 びじゅつ室中央の壁に設置された「頭文字I」は、わずかな隙間から顔を覗かせる、ボードレールの肖像写真が配置されている。この「頭文字I」と正対したときに、感じるのは、のぞきこまれているという感覚だ。考えてみれば、私たちが外界を認識するとき、こちらから一方的にとらえていると錯覚しがちだが、その実、対象物からも見つめかえされれている。このボードレールの目線から浮かび上がるのは、世界は、双方向的な視線の乱反射から成り立っているということだ。仮に、この視線に時間軸が交錯するとしたら、時間とは視線の堆積ともいえよう。このとき、視線は、世界を支配する唯一の論理となる。見つめる/見つめ返すことを実現することで「頭文字I」は、こちらの世界と向こう側の世界の境界を曖昧なものとする。ボードレールの肖像の向こう側の世界への誘いは、どこか蠱惑的だ。そして、裂け目からこちらをうかがうボードレールは、さらなる広がりを背後に予感させる。狭さとは、奥行/深さにつながるものだ。こうした縦の方向性は、自身の内なる世界へと鑑賞者を導く。ボードレールの肖像が住む世界は、この世ならぬ場、彼岸であり、鑑賞者自身の内世界でもある。結局のところ、どこまでも遠くを目指す感覚は、内側に沈静せんとする意志と重なるものだ。「頭文字I」と鑑賞者の双方から放たれる視線の絡み合いは、世界を歪め、内/外といった区別を消失させる。
 茶室中央におかれた「RIMBAUD」は、「頭文字I」とは違い、鑑賞者が像を見出すものだ。漆黒に近い背地のなか、望洋とうかびあがる詩人ランボーのポートレイトは、実像を剥奪された気配/予感/影のようにもみえる。確信/安定/絶対といった概念から程遠いものとしてランボーの肖像は、位置付けられている。考えてみると、世界はきわめてあやふや、かつ曖昧なものともいえる。真理/真実なども当事者、それぞれの立場からみれば、いかようにでも内実を変化させる。こうした、世界がはらむ、根本的な不安定さを「RIMBAUD」は鑑賞者に示唆する。
 みつめるもの/みつめられるものという対立項を「頭文字I」と「RIMBAUD」の関係性にあてはめると、既知/未知の関係性に敷衍できる。驚きは、未知なるものへのもっとも原初的な感情である。この出発点にたつかぎり、北川健次氏の初期作品群を支配する根本的な感情は〈驚異〉である。なぜならば、既存概念のあり方を疑う、あのシュルリアリスムの息遣いがうかがわれるからだ。かつてブルトンが〈痙攣的〉と称したものは、どこか作品世界にまとわりついている。初期北川健次作品のもつ、危うさ、すれすれのなにかをみてしまったという感情は、このあたりに由来する。
 びじゅつ室で、人の朗読や演奏に耳を傾けながら、思考を辿っていくと、視覚は、実は他の感覚を代行しているときがあるのではないかということだった。つまり、像としてとらえているものが、実は、声/味/触感として本来、享受されるものではないのかというかすかな懐疑である。だとすれば、あらゆる実感は、相対的なものでしかない。認識とは、裏切られ、また裏切ることの繰り返しであるということを初期北川作品は暗示している。







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2011年12月13日

西崎憲さんと語る可能性の文学の歩き方受付状況

昨日時点であと二人。立ち見席は二人。順調でしょうか。

ナボコフ「ロリータ」を読み終わり、プルースト「失われた時をもとめて」二巻を読み始める所存です。長い旅になるなあ。
posted by りき at 08:13| ロンドン 雨| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月03日

西崎憲さんと語る可能性の文学の歩き方

ご無沙汰かも

西崎さんの新刊「ゆみに町ガイドブック」と異形コレクションの出版記念で超短編のイベントを行います。
詳細はタカスギシンタロさんのブログを参照ください。

ベコカフェは雰囲気のよいブックカフェです。今年五月の初心者向け超短編のイベントも楽しくできました。

タカスギさんやがくしさんが西崎さんにどんな視点で切り込んでいくかがきになります。

西崎さんの書き下ろし超短編作品も楽しみです。

会終了後は西崎さんのサイン会になります。私もサインもらおう。そのまま懇親会になりますのでゆっくり参加者全体でお話できればと思います。

ちなみに予約はまだ大丈夫です。定員14名です
posted by りき at 09:46| ロンドン 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月02日

近況

ぺガーナロスト13号が三年ぶりにでます。私はヤン河の舟歌論で参加。ファンタストからの転載になります。未谷おとさんは休むまもなく片影の編集作業に。片影は水晶散歩の原稿がまた未到着。私は隣合わせの灰と青春論を。
ファンタストが来年頭にはでるかも。とりあえず、蕃東国年代記論、北園克衛論は仕上げてます。特集は西と東。

風邪がなおりません。
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2011年10月29日

ラブレー「ガルガンチュア」「パンダグリエル」

全五冊読んだ。
岩波文庫版。

苦痛だった。ライター牧真司さんの紹介が魅力的なんだけど。

ガルガンチュア大旅行記からつきあったが、誇張された描写、風刺とわけわからないうんちくとで、できあがっている。ストーリーらしいストーリーはない。

誇張された描写にしても、映像が浮かばない書き方である。

読み終わって残るのは、作者のどすぐろい悪意のみ。
どうも私には響かない。

膝栗毛の再読はあるが、ラブレーは二度と読まない。
posted by りき at 02:40| ロンドン | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月25日

好色一代男

西鶴の元本をなんとか読んだ。内容は遊女の生態を描くところに主眼あり、世之助はあまり出番が少ない。文章の凝りかたが尋常ではなく、細かい技巧に驚嘆した。

わりにストレートな記述が多く、まともに現代語訳は難しいかなと感じた。
posted by りき at 20:49| ロンドン 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月22日

坂井淳二「玄月」展

坂井淳二「玄月」展で展示された版画作品のほとんどが、市松模様、菱形、十字などのパターン/模様/記号のようにみえるもので構成されていたが、画面から感じられるのは、ある種の艶かしさ、官能性である。それぞれの作品を注視したときに、背景に流れる〈縦〉の流れが、そうした印象をもたらしていることに気づく。〈縦〉方向に示されるある種の運動性は、版画作品に動きや気配、予感のようなものを生み出している。さきほどあげた艶かしさ、換言すれば、生命感は、この〈縦〉の流動性からもたらされる。
びじゅつ室の中央に設置された「Luna negra’11-VI」は、闇のなか、浮かび上がる微かな十字模様が印象的だ。この風景は、雨雲に閉ざされ、雨が激しく打ちつける窓とも、真夜中、月明かりにかすかに浮かび上がる窓枠ともとれる。いずれにせよ、十字の背後をながれる〈縦〉の流動性は、周囲を囲む「Luna negra’11」連作たちに広がっていく。この〈縦〉の流動性に、私は、雨/月光の重なりを見出す。
雨としてとらえるならば、この流動性は液体としての要素をつよくはらむことになる。ながれおちる雨しずくは、そのまま、鑑賞者のもつ時間軸と強く交わり、時の経過の痕跡としてうかびあがることになる。このとき、雨の流跡は、時間そのものとなる。結果、流動性は、個人的な時の流れとしての相を獲得する。それでは、月光としてみたときには、どうだろうか。月そのものがもつ女性表象との結びつきを考えると、前述した官能性は、月とのイメージの連鎖から発生していることがうかがわれる。闇夜に浮かぶ月光の訪れを、〈縦〉の運動性にみいだしたとき、ここに提出されるのは、個人の時間ではなく、世界そのものがもつ、根源的な時間の相である。月明かりが表出するものは、昼の論理ではとらえることのできない〈闇〉の論理、普段、見出すことのできない始源的なものである。自らの獣性ともむきあうことを余儀なくされるかもしれない、危険な領域の時間である。雨としてかんじられる個人的な時間の流れとはちがい、月あかりに託される根源的な時間は、世界そのものとして認識される。茶室に飾られた「Luna negra’11」二作の基調が薄暗がりの色調とされているのは、このためだ。びじゅつ室の時間そのものを遡行させるために。
遡った時間は、作品と鑑賞者の関係性になにをもたらすのか。世界と自分という関係性を考えたときに、まず意識されるのは、〈視覚〉である。そして、人間は観ることによって世界をまずとらえるが同時に観ることによって裏切られてもいる。「玄月」に展示された版画作品は、観ること/観られることにより、こぼれおちていくなにか、形象化できないものを暗示する。おそらく、それは、未だ形にならぬ、向こう側からこちらにたえず、働きかけてくる名状しがたい絶対的ななにかをとらえようとしている。
 個人的な時間の相の核に、始源性を備えた「Luna negra’11」連作は、重層的な世界観を鑑賞者に示唆する。そのあり方は、木の年輪のような堆積するものとしても認められるだろう。縦の流動性は、木の年輪のような堆積する/した時間を感じさせる。可逆的に装置された、びじゅつ室の時間は、胎内的なものともとれる。どこかに還っていく感覚が、「Luna negra’11」連作には刻み込まれている。

posted by りき at 09:44| ロンドン 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月24日

渡辺温展→シス書店

渡辺温展に。品川のギャラリーオルキュスに。渡辺東さんには先日の推理作家協会の例会以来。
展示物で記憶にのこったのは、本多さんの温のシルクハットをつかった三枚の写真。あとは喜国さんの父をなくした話の絵。
知り合いがつくった文庫版の渡辺温全集をしまう手作り収納箱を東さんたちにおみせする。おはなしして、会期中、画廊の片隅に参考展示していただくことにした。小さな赤い薔薇十字版の函に似たものがそれです。オルキュスに行かれる方はみてくださいな。

シス書店はコレクション展示。岡上さんの作品がやっぱりいい。オーナーの佐々木さんたちとお話。

夕方、帰宅。
posted by りき at 08:10| ロンドン | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月22日

渡辺温

ついに出た、渡辺温全集。ひととおり読んだ。
やはりあの時代を濃厚にうつした作品が多数ある。
小説よりも掌編に気になるものがあった。あとはシナリオ。

進行中のストーリーがひっくりかえる、あったかどうかうやむやになるというパターンの話が多い。このあたりは作者の革新的なものがでている。あとは自立独立をうたう小説や文章があまたあること。これらも前述の要素を考えさせる。

温が死ぬ直前、こんなものとどこかの神社のお守りをやぶりすてたというエピソードを読んだ。温はなにかを変える、壊す、そしてこれまでなかったものをというあの熱いモダニズムの薫をままたたえたようなところがある。

昔、友川かずきと明和電機につよくひかれた時期があった。ふりかえると、友川の無頼性と明和のスマートなナンセンスさに憧れていたのだ。いずれも自分にはない要素でありないものねだりだ。

きがちいさく小市民性を捨てられない私は、積極的になにかを起こす、動かすということが苦手だ。また感情を強く動かすことも。

私がなにかをひろいあげたいと思うとき、対象が自分だけのものと錯覚できるものをもつことが好ましい。有名なもの、知られたものにはあまりひかれない。マイナーなかきてやつくりてを追う理由は一重に自分のパーツとしてなにかを託すことができる可能性が高いからだ。知られていないということは磨きがいがあることの裏返しでもある。ただ研いてもダメなものはダメだが。

温もこうした忘れられた作家の一人として私は認識していた。温の作品は探偵小説の枠組みにはおさまらないものばかりだ。ジャンル小説としては逸脱が多い。またこうした透過性も私は惹かれる要素である。
posted by りき at 08:15| ロンドン 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月21日

東海道中膝栗毛

名古屋のリニアモーター館で岩波文庫版が飾ってあり、ぱらぱら読んだところ、かなり面白そうだったので、地元西荻の古本屋盛林堂さんで岩波の大系を買った。
かなり時間がかかったが、爆笑の連続だった。やじさん、きたさんがひきおこす事件がたくさん集まったもの、小咄たくさんが膝栗毛である。はっきりいって土地はどこでもよい部分がある。
その割に取材もするところはしているらしく、たまにみられる方言、土地ならではの話、風物はきちんと書いているところもある。

会話だけで話が進んでいく。テンポがいのち。

読み終わって思い出したのは柄谷の『日本近代文学の起源』。風景の発見と内面の発見のくだりだ。たしかに膝栗毛の世界には奥行きがない。掘り下げることはない。心理を描くということが問題にすらならないからだろうか。このあたりは断定するには材料があまりにたらない。
あとは、ナンセンスな世界がもつ力つよさとテンションの高さ。ハイレベルなお笑いが延々とつづいているような感覚。ゆえに連続して読むとつかれる。さらにいえばむなしい。やじきたの旅はなにも残さない。すがすがしいくらいに。
このなにものこらないという点はただし通常の娯楽作品と違う印象をわたしに残すのは、膝栗毛にはタブーがないからだ。
禁止事項をやすやすとのりこえるやじきたは、現代の私からみると別世界の住人だ。
女とみれば、身体障害者だろうがなんだろうが、とりあえず襲うし、盲目の人間を徹底的にからかう。

膝栗毛の推進力のひとつに官能がある。下世話にかけば下ネタだ。
私は下ネタが苦手だ。とりつくろうこと、世間体を気にする小心者だからだ。そうした外面のとりつくろいは膝栗毛の世界にはない。笑いを武器にすべてを飲み込む。

落語も考えてみると笑いですべてをつつみこむ。このひとつになるあろうとする方向性が私をとらえる。

そういえば耳嚢にあった話で、おじいさんが男色の受けはどんなものかと実際にハリガタを肛門にいれあまりのショックに気絶したという話が収録されていた。
posted by りき at 07:18| ロンドン 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする