2018年09月25日

蜂須賀正氏博士「鳥の棲む氷の国」刊行

徳島の大名の末裔、華族にして鳥類学者の蜂須賀正氏博士の随筆集「鳥の棲む氷の国」を刊行しました。

特筆すべきは、蜂須賀正氏博士自身の日記をもとに執筆された、「琉球採集旅行記」です。
戦前の沖縄は、写真、記録が少なく、蜂須賀正氏博士の随筆は、大変貴重なものとなっています。蜂須賀正氏博士によって撮影された、戦前の沖縄の写真を多数、収録。
蜂須賀正氏博士の日記をもとにかかれた、沖縄旅行記は、いきいきとした沖縄の風物をえがき、蜂須賀正氏博士の海洋生物の採集、鳥類調査を丁寧に記録しています。

蜂須賀正氏博士の専門は、「不思議の国のアリス」にも登場する、絶滅した鳥、ドードー鳥。
近年、江戸時代に長崎の出島に上陸した、ドードー鳥の行方が話題ですが、「鳥の棲む氷の国」収録の「中支生物紀行」は、蜂須賀正氏博士が、長崎で、ドードーのことを調べていたことがわかります。シーボルトにもふれていて、蜂須賀正氏博士の見聞の広さにふれることができます。

「鳥の棲む氷の国」を読むと、いまだ、どこかに、あろう、蜂須賀正氏博士の日記をよみたくなること必死です。

西荻、盛林堂さまにて、取扱中です。

よろしくお願いいたします。


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2018年06月14日

猪場毅作品集


永井荷風の小説「来訪者」のモデルのひとりであり、怪奇小説の翻訳の名手としてしられる、平井呈一とともに、永井荷風の偽短冊色紙を制作、うりとばし、さらには、永井荷風の春本「四畳半襖の下張」流出のきっかけをつくったともくされる、猪場毅は、樋口一葉全集を編み、伊庭心猿名義での句集をもつ文学者である。


現在、制作中の猪場毅作品集は、猪場毅の習作期から晩年にいたるまでの文業を、ひととおりまとめたものとなる。
猪場毅は、優れた編集者であり、佐藤春夫門下であり、佐藤春夫の命により、和歌山滞在時に、「南紀芸術」をたちあげ、編纂し、戦後も「真間」という文藝誌を編集している。


俳人としては、富田木歩の弟子として出発し、死ぬまで俳句にかかわっていた。


永井荷風との一件は、平井呈一の側から語られることが多く、もうひとりの当事者である、猪場毅については比較的語られることはすくなかった。
本作品集刊行により、もうひとりの来訪者に光があたることを期待する
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2017年05月25日

新編左川ちか詩集 前奏曲

左川ちかの名前を知ったのは、たぶん、佐藤弓生さんの教示によるものだ。
当時、森開社と田村書店から発売された「左川ちか全詩集」は入手困難。弓生さんが全貌を知りたがっている、この女性詩人の作品をなんとかして読みたくなった。
北海道の古本屋で販売されているのをみつけ、ネットで注文し、入手した。
ちょうど、江古田文学系列の同人誌が、左川ちか特集をしていたのもおぼえている。
たぶん、2009年くらいだと思う。
その年の夏、荻窪のミニヨンで、モダニズム茶話会をやり、左川ちかをとりあげた。このときは、赤井都さんも茶話会に参加、その後、左川ちか豆本を赤井さんが製作するきっかけになった。
弓生さんは、その後、同人誌ファンタストに、左川ちか論を発表、歌集「薄い街」の巻頭に、加筆され収録された。

左川ちかの詩は、独特である。
「昆虫」は、モダニズム詩らしい硬いイメージがあるが、大半の作品は、分類不可能なものとなっている。
多くの詩に目立つのは、「死」に隣接したイメージが、詩の内側にあること。それでいて、語彙は、たしかに、あの時代のものを感じさせるものとなっている。左川ちかの実験精神は、詩から完全に意味を喪失させるものではなかった。
詩の内実を質的な変化をもとめたのだろう。

伊藤整と左川ちかの親しい間柄については、いくつか証言がある。
ジョイス「室学」の翻訳は、伊藤整からの示唆によるものだろう。
尾崎翠は、「こおろぎ嬢」で、フィオナ・マクラウドに言及し、左川ちかは、ジョイスの翻訳を遺した。アイルランド文学とのかかわりから、尾崎翠、左川ちかを眺めたとき、左川ちかにとって、アイルランド文学は、そう決定的なものではなかったろう。片山広子にとってのそれとは大きく異なる。
むしろ、伊藤整からの外的影響のあとをみるばかりだ。

左川ちかの詩は、バリアントが多い。
詩は、余白、行間にも詩人の意思がある。発表毎に、なんかしらの操作を加える、左川ちかは、蒲原有明や稲垣足穂のように、自作に手をいれつづけた。
死後にでた、伊藤整編纂という、椎ノ木版「左川ちか全詩集」は、左川ちか本人の校訂を経ていないため、厳密には決定版とはいえない。

6月に刊行される、新編左川ちか詩集は、可能なかぎり、初出に揃えている。つまり、詩人の意思がある版で内容を整えている。これだけでも、先行する三冊の左川ちか全詩集とは、別物であろう。
かつ、室学は、原典との対比校訂まで行っているのだ。

いま、どれだけの読者が、左川ちかを求めているか、わからない。だが、かつて、二階堂奥歯さんが愛読し、歌人、佐藤弓生さんの心をとらえ、森開社社長、小野夕氏がライフワークとして研究に生涯をかけただけのものを、左川ちかの詩にはあるのだ。
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2017年05月15日

秋葉シスイさんの近作をめぐって

秋葉シスイ近作をめぐって

経堂にある芝生画廊のグループ展に展示された、秋葉シスイ氏の油絵の小品八点を見に行った。
秋葉シスイ氏の油絵は、混沌とした背景の中、横向きの人物が溶け込むように配置されていることが多い。だが、今回、展示された作品は、この構図のものは1点のみであった。
ほかの作品は、一羽の鳥が空中を旋回しているもの、真白ななか、他を威圧するかのように屹立した城砦のような建物を描いたもの、星空と小さな山小屋のような一軒家を描いたもの、吹雪のなかに真っ白になった山小屋のような一軒家を描いたもの、はっきりしない黒にちかい背景のみの作品、であった。
展示作品全体から、豊饒な孤独、贅沢な孤独といった一見、矛盾するような印象を得た。そして、わずかながらの物語性をも。
孤独が贅沢、豊饒であるといったときに、具体的な定義を考えると言葉に詰まってしまう。なぜなら、孤独とは、本来、無一物でたったひとり、世界と向き合うことを意味するからだ。すべてをそぎおとし、完全なる個として世界と対峙するとき、そこには、贅沢、豊饒といった感覚は決して浮かび上がることはない。だが、秋葉シスイ氏の油絵からは、本来、孤独から想定される厳しさから遠いものを感じる。秋葉シスイ氏の油絵には、たしかに孤独であることの寂しさや厳しさは刻み込まれているのだが、鑑賞者には殆ど感じ取れないまでに、濾過および稀薄なものになっている。秋葉シスイ氏の油絵は、孤独の質的変換に成功しているのだ。
描かれているモチーフからは、不安をかきたてられるはずなのに、鑑賞者をとらえてはなさないのは、この独りであることを是とする、繊細な感覚をしらず、鑑賞者に浸透させるところにある。
そして、さらなる変化を秋葉シスイ氏の油絵に私は感じた。物語性への獲得である。秋葉シスイ氏の油絵は、時間がとまったものが多かった。静止した時間は、鑑賞者それぞれのなかで解凍され、いついかなるときも古びることなく、鑑賞者毎の時間軸でよびおこされることになる。その意味で普遍的な要素を結果として秋葉シスイ氏の油絵は獲得していた。
だが、芝生画廊でみた作品群には、動的な時間進行をわずかながらに感じた。
万物流転という言葉があるように、あらゆるものは変化する。不変的なものはその意味では存在しない。そして、変化を意識したとき、そこには、はじまり、過程、結末が生まれる。一連のプロセスは最少単位の物語となるのだ。
だが、この物語は具体的な相をもっていない。どこでもない時間、どこでもない場所ではじまる、あてがない物語である。簡単に言えば、状況は設定されているが中身がない物語である。つまり、それは見る人の数だけ広がる物語である。
この物語性の発生は、画家が変化に真摯に向き合い始めた結果、導入された要素だろう。画家にとって、変化とはなにかという模索ははじまったばかりではないだろうか。そして、それは終わりがない旅路であることも自覚されているように思う。
とすれば、秋葉シスイ氏から生まれてくる作品群は、作家の模索の集積であり、日々の歩みの堆積となる。鑑賞者は、さらに自分の物語を重ね合わせ、ひとつとして同じものがない自分だけの物語を得ることになる。
posted by りき at 08:10| ロンドン ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月08日

永松武夫「黄金魔人」講談会

永松武夫「黄金魔人」講談会のお知らせ

年末に発売された、黄金バットの永松武夫「黄金魔人」の販売を記念して、「黄金魔人」収録作品を、講談にしあげ、講談の会を開催することになりました。
出演は、新進気鋭の講談師、神田真紅さん。
以下の日程、内容になります

6月10日土曜日、19時から21時。
入場料 事前予約 1500円、当日2000円
定員 30人
会場は、西荻銀盛会館

予約は、参加人数とお名前を記載し、
rikichanzoochan@yahoo.co.jp
まで、お願いいたします。

なお、かなり、真剣に来場者特典を検討してます。

予約はじめてます。少しずつ、埋まってきてます
posted by りき at 19:05| ロンドン ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月18日

黄金魔人講談の会やります

永松武夫「黄金魔人」講談会のお知らせ

年末に発売された、黄金バットの永松武夫「黄金魔人」の販売を記念して、「黄金魔人」収録作品を、講談にしあげ、講談の会を開催することになりました。
出演は、新進気鋭の講談師、神田真紅さん。
以下の日程、内容になります

6月10日土曜日、19時から21時。
入場料 事前予約 1500円、当日2000円
定員 30人

予約は、参加人数とお名前を記載し、
rikichanzoochan@yahoo.co.jp
まで、お願いいたします。

場所は西荻銀盛会館
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2017年02月17日

田中啓介作品集刊行のお知らせ

夭折の少年ダダイストの作品集成、田中啓介『造園学のリボンをつけた家』

         田中啓介モダニズム作品全集

書名:造園学のリボンをつけた家
           ――田中啓介モダニズム作品全集
著者:田中啓介
校閲:善渡爾宗衛
資料協力:カトウジン
解説:沼田とり
表紙デザイン:夏目ふみ
判型:A5版・160頁
予価:6,000円
刊行予定:2017年3月初旬。
限定100部

まぼろしの「少年ダダイスト田中啓介」。
稲垣足穂の「バンダライの酒場」は、大正十四年五月発行『ゲエ・ギムギガム・フルルル・ギムゲム』に掲載されました。その足穂の紹介で田中啓介は、「こはれた玩具の話」によってデビューし、大正の末から昭和の初期にかけて、彗星のように駈けぬけました。石野重道にも連なる田中啓介は、その掲載誌が『G・G・P・G』『文芸耽美』『クロネコ』『ドノゴトンカ』『狐市街』『MAVO』『戦車』『薔薇魔術学説』『影』『海の晩餐』など、どれも、超稀購モダニズム同人誌への執筆ばかりでしたので、作品の収集は絶望的だとされていました。今回、北園克衛研究家であるカトウジン氏の協力により、東都我刊我書房で、はじめて、詩・コント・小説・散文が集成されることになりました。解説は、稲垣穂足の研究家である
沼田とり氏にお願いしました。極小部数での発刊となりますので、お買い逃しのなきよう、よろしお願い申し上げます。

書肆盛林堂さんにて、二月下旬に予約開始予定。

井山さんからの告知がでました。これの製作にも、関係してます。
並行して、進めている本のひとつです。
私は、本文組み作業の一部、関係各所の調整を。
内容は、足穂の仲間だなあとわかる傾向のものばかり。
キラキラしたものが、文章の端々にうかがわれます。
モダニズム文学の逸品は、どこか、輝くところがあります。たぶん、それは、かつて、新しさの極みだったものが、時間を経て、質を変えたからだと思います。
懐しさを湛えるようになるのです。未来はどこか懐かしい。
posted by りき at 06:18| ロンドン | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月22日

クラーク・アシュートン・スミス論

そはなにものぞ
ークラーク・アシュートン・スミス試論

栗本薫グインサーガ外伝「七人の魔導師」の解説で、鏡明氏が、クラーク・アシュートン・スミスは、雑誌「ウィアード・テールズ」の最高峰の作家であり、栗本薫を、クラーク・アシュートン・スミスの才になぞらえて論じていたことを記憶している。鏡明氏の言をもちだすまでもなく、雑誌「ウィアード・テールズ」に集った作家たちのうち、クラーク・アシュートン・スミスは、別格であるという評価は、よくきく。ラヴクラフト、ハワードといった作家を押しのけて、スミスだけが特別扱いをされるのはなぜだろうか?
スミスの遺した怪奇小説、ファンタジー小説を読むと、まず、気づくのは、卓越した描写力、視覚性である。異様な雰囲気のなか、グロテスクきわまりない出来事が発生しても、読み手になんとなく美的な印象を残す。正直、スミスの短編小説は、ストーリーテーリングに、そこまでの力はない。スミスの短編の長所は、ヴィジョンの鮮烈さにある。
ゾシーク、アトランティス、アヴァローニュといった連作にしても舞台が変化しただけで、作品の本質が変化するわけではない。その意味で、スミスの連作は、雰囲気が変化しているだけで、描かれている内実に変化はない。では、スミスの短編の本質、核とはなんだろうか。
怪談は、雰囲気、アトモスフィアの見せ方、維持に生命線があることを、ラフカディオ・ハーンはエッセイに書き残している。このアトモスフィアの美的形象という点からスミスの短編を捉えた場合、見事なまでの雰囲気造りに成功している。極端なことをいうと、スミスの短編は雰囲気しかない。
例えば、指輪物語を書いたトールキンは、作品世界に対し膨大な設定を背景に用意することにより、ミドルアースの世界に息吹きを吹き込み、いきいきとしたものをつくりあげた。
これに対し、スミスの短編は文章力のみで、異世界の空気感を産み出し、読者にある程度、共有させることに成功している。スミスの方法論は、初期ダンセイニの短編、内田百間の短編に近いものがある。いずれも文章力のみの力業で、読者を異様な世界に導いていく。
スミスの短編を図式的に解体すると、大多数の作品構造が、エピソードの美的頂点およびドラマティックな終焉の構築にのみ腐心している。
この点が、スミスの短編は意匠の違いはあれど、内実に差異がないと私が言い切る根拠である。舞台立ての変更は、雰囲気の変化をつけるための選択でしかないのだ。「死者の帝国」で、魔法使いに復讐する死人たちの群れを描くのも、「イルーニュの巨人」で、グロテスクな巨人を描くのも、見せ方、在りかたの違いだけで、本質に違いはないのだ。
スミスの短編が、ああした通俗的な異世界ものの舞台立てになっているのは、発表先にあわせただけで、仮にスミスの活躍先が文芸誌だったら、文芸的なニュアンスの作品を執筆したことだろう。
スミスの短編に、作家の内面性が強く刻印されたものを感じないのは、私だけだろうか。
例えば、ハワードのコナンシリーズは、母なる自然に抗う子としての英雄という構造に、ハワードの母なるものへの複雑なものを感じることができるし、ラヴクラフトならば、「インスマスを覆う影」といった少ない成功作から、ラヴクラフトのニヒリズム、自己嫌悪といった感情をひろうことができる。
だが、スミスの短編には、そうした内面のドラマの刻印は稀薄だ。私にとって、クラーク・アシュートン・スミスは、顔がない作家、無貌の作家である。その意味で、スミスの短編は、計算づくめで成り立っている。スミスの創作作法は、ポーのそれに近い。スミスの短編に、荒々しさ、勢いは薄い。無意識が介入し、偶発的になにかが展開することを許していない。たぶん、スミスは、視たものをまま形にしているのみと、いま、生きていたなら嘯いたことだろう。自らの神秘化のために。
スミスの本質は、詩人としての部分にある。スミスの短編の正体は、散文のふりをした韻文であるといっておこう。ある感情の盛り上がり、その美的解体という基本構造は、詩の創作論理に基づくものであり、小説のそれではない。だから、スミスは、長編小説を執筆しなかった。いや、できなかったのだ。必要最小限に選択された言葉で、短編小説を構築していくというスミスの方法論では、長編の執筆は不可能である。事実、ポーも、百間にも長編小説はない。ダンセイニも「エルフランドの王女」「魔法つかいの弟子」といった長編ファンタジーがあるが、短編小説の空気感とは異なり、その雰囲気は長編を書くためのそれに変化している。だからこそ、「エルフランドの王女」には、ダンセイニの一神教的な価値観と汎神論的な気
質の対立から融和という変化を認めることができる。私には長編小説を書くためには、無意識の介入を許すか否かというところにも用意が必要と感じられる。スミスの短編とは、意識的に制御された文章作法のもとに産み出されたものである。計算を超えたものの介在を認めない世界である。
スミスの短編に、作家の内実や切実さを見つけることは難しいが、スミスの短編は、馬鹿馬鹿しい構造をもったものも少なくない。たとえば、罰ゲームのように、古代の邪神たちの間をたらい回しにされる人間の非喜劇を描いた作品があるが、よくよく考えてみると、コミカルな構造であり、主人公は気の毒ではあるが、傍観者である読者からすれば、嘲りの対象でしかない。スミスの短編を、まともに構造を分析したところで得るものは少ないだろう。ここにあるのは、単なる雰囲気、それだけなのだから。
ドラえもんのなかで、スネ夫が空気の缶詰なるものを自慢する場面があった。世界各国毎の空気を缶詰にしたものだ。スミスの短編は、私には、こうした空気の缶詰の山のようにみえる。アトモスフィアのみの存在。極力、作家の内実を排したものを提供し続けた、クラーク・アシュートン・スミスは、その意味で、プロに徹した作家である。言い換えれば、読者に徹底的に奉仕し続けた作家なのだ。では、作品の内実に自己を反映させなかったのはなぜか。スミスの造った造形物やイラストの傾向をみると、この作家の表現衝動の根に、幼児的な外界への恐怖感があることが感じられる。その意味で、スミスの短編小説は、内的変換の末にグロテスクさに彩られた恐怖感の投影にすぎないという見方も成立するかもしれない。いずれにせ
よ、宇宙的恐怖というよりも小児的恐怖に貫かれたのが、スミスの短編作品である。
posted by りき at 09:05| ロンドン | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月02日

この世界の片隅に をみて

「この世界の片隅に」の空気観、見終わったときの印象は、よくできた私小説を読んだ感じにも似ている。たぶん、空間のスケール感によるものだと思う。「この世界の片隅に」とあるように、この映画は、壮大なドラマをあつかったものではない。戦時のある女性と嫁ぎ先の家の物語である。敗戦に向けて、広島の原爆投下に向けて、日々は淡々と過ぎ去っていく。国に翻弄される、すずや周囲の人々の生活が丹念に描かれている。この監督は、ジブリのよいところをいくつか移植している。そのうち、もっとも機能しているのが、調理シーン、食事シーンの繊細な描写である。アニメ「アルプスの少女ハイジ」、「天空の城ラピュタ」、「魔女の宅急便」などにみられる特徴だ。さらに、兵器の描きかた、戦時の呉、広島の街並みの描
きかたは、広瀬正「マイナスゼロ」の銀座の描写並にこだわりをもって仕上げられている。
物語の細部に奇跡は宿るというが、「この世界の片隅に」は、細部の描写に魅力があるのだ。
そして、背景となる戦時は、淡々と描かれている分、観客にさまざまな問いかけをする。そう、「この世界の片隅に」は、プロパガンタになっていないのだ。
戦争について考えたときに、思うのは、戦時における文学者のありかただ。戦前、前衛詩人として活躍した北園克衛は、戦後、黙殺された。北園の黙殺には、複数の理由があるが、ひとつに、戦時中に特高に連行され、戦争協力詩を執筆したことがあるだろう。
戦後、戦争協力、賛美した文学者は、いささかヒステリックな感情を含んだ断罪に近い評価を受けた。敗戦により、すべての戦時中の価値観がひっくり返り、その結果を受けて、だ。
私には単なる後だしじゃんけんにしかみえないが。
すずの敗戦を告げる玉音放送のあとの慟哭こそ、大半の国民の感情だろう。「なんのためにいままで?」という。
まま、描き、裁くことを避ける監督の演出は、際立った成功をおさめている。
「この世界の片隅に」は、戦時の衣食住、眠り、性、食欲の人間の三大欲求を淡々とまちがいがないように描きつつ、民話的なファンタジーとしてまとめられている。主人公、すずが、物語る人であり、また、作家性をもった女性であったからこそ、成立する仕掛けである。
苦楽をわけへだてなく描いた「この世界の片隅に」は、間違いなく、戦争をあつかった作品群のある到達点である。
posted by りき at 07:23| ロンドン | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月24日

マコトフジムラさんのトークイベント

11月9日、16時から、
西荻にある、ギャラリー数奇和さまで、
アーティスト、マコトフジムラさんのトークイベントで、聴きてとして参加します。
予約は不要です。入場無料。

よろしくお願いします
posted by りき at 20:06| ロンドン | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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